苦しくなってきた。
 彼はなるべく兼子の眼付がない隙《すき》を窺って、依子の側へ寄っていった。そして膝の上に抱いてやった。依子はじっと抱かれていた。然し彼が頬ずりをしたり頭を撫でたりすると、「いやよ、いやよ!」と云った。
 この子は深い愛撫には堪えないのか、もしくはそれを嫌いなのか? と彼は考えて見た。然し、何れとも分らなかった。彼がぼんやりと考えていると、依子はじろじろ彼の様子を眺め初めた。彼はそれを気付いて、そっと向うを見返した。依子は俄に立って来て、黙って彼の膝に乗った。然し彼にはもう抱きしめるだけの気が起らなかった。嫌な気さえした。「お母様に抱っこしていらっしゃい。」と彼は云った。
 依子は素直に兼子の方へ行った。暫くして彼が覗いてみると、二人は少し離れて坐っていた。依子はむっつりしていた。兼子は冷かな横目で、時々その方を見やっていた。しまいには兼子は涙をぽろりと落した。そして依子を抱いたが、すぐにまた下に置いて、ぷいと立っていった。
 そこへ――依子を引取ってから二十日ばかりの後に、敏子から幾代宛の手紙が来た。幾代は眼を濡ませながら、それを彼の所へ持って来た。彼は読んだ。

 私事、この度広島へ行くことに致しました。依子さんのことをお頼み致します。昨日瀬戸様へお目にかかりまして、無事に皆様からかあいがっていただいていることを承りまして、涙が出るほどうれしく存じました。永井が私へいろいろいやなことをすすめますけれど、私はだんじてそんな悪いことを致したくはございません。広島にいとこがございますので、相談致しますと、すぐ来いといってきました。手びろく乾物屋を致して居ります。今晩たつことに致しました。一度お伺いしたいと存じましたが、依子さんのために悪いと思いまして、このままたちます。もし永井が参りまして、何かと申しましても、何にも知らないとおっしゃって、相手になって下さいますな。お願い致します。依子さんのことをお頼み致します。お身体御大切にあそばしませ。皆々様へよろしく申上げます。御恩のほど一生わすれは致しません。広島からお手紙を差上げてもよろしゅうございましょうか。皆々様御身体御大切に御願い致します。

 彼は涙が出て来るのを、じっと我慢した。兼子が何か云おうとするのを押し止めた。依子がこちらを見ていたからであった。彼は依子の目と耳とを恐れた。
 依子は向うの隅
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