になった。針仕事に対して、妙に執拗な熱中を現わすようになった。然し仕事そのものを愛しているのではなかった。平素着の仕立物などを外へ出すことを拒みながら、着物一枚を幾日もかかって弄ってることがあった。いろんな布《きれ》を膝の前に散らかし、針箱を引き寄せて坐ってる、そういう境地を愛してるらしかった。幾代の態度もまたそれを助長していた。身体を動かすような仕事を幾代は出来るだけ彼女にさせなくなった。その上いろんな細かい世話までやいた。魚屋《さかなや》が来ると自分で立って行くことさえあった。滋養の多いものを取って体力をつけさせること――そのくせ運動を少くさせながら――それが彼女の主義らしかった。そしてしまいには、二人で入湯の旅に出かけることを夢想しだした。夢想……に違いなかった。いつまでも実現出来なかったから。
 兼子が遊び半分に針を運んでる側で、幾代は彼から買って貰った種々の地図を拡げた。兼子も針を置いて覗き込んだ。そして二人で諸方の温泉を物色し初めた。やがては旅行案内記のようなものまで読み初めた。
「早くきめたらいいじゃありませんか。」と彼はよく云った。
「でもねえ、女ばかりの旅ですから……。」と幾代は答えた。
 彼は仕事の関係上長い旅は出来なかった。それで、往きと帰りとだけ伴をすることにしようといったが、初めから女だけの方がいいと幾代は答えた。そして彼女等は頭の中で、温い湯の湧き出る野や山の自然を、築き上げたり壊したりした。そういう感傷的な気分のうちに、二人の心は実の母と子とのように結ばれていった。彼はそれを喜んだ。二人の心が落付いたと思った。
 二人の心は実際落付いていた。然し、彼が夢にも思わなかったほどの深い所へ沈潜したのだった。二人は、依子を家に引取って育てたいといい出した。
 依子! その名前を今公然と持ち出されると、彼は一種の暗い壁にぶつかったような気がした。半ばは異性に対する好奇心から、半ばは本能的な肉慾から、何等の予想なしに設けた子であり、当時その存在に対して、愛着と憎悪とを投げかけた子であって、其後母親の手で育てられてるということを自ら責任回避の口実として、折にふれて気にかかりながらも、忘れるともなく忘れがちになっていた子だけに、その子のことを考えると、暗い影に心が蔽われた。彼は母と妻との申出に対して、諾否の返答が与えられなかった。そしてただ、二人の心持
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