急湍を作り、八丁滝の名がある所以だ。
 菅沼にも丸沼にも、鯉や鮒の類が住み、鱒が放流してある。鱒の養殖所は丸沼の遙か下方にあって、虹鱒と姫鱒の二種。産卵期が春と秋に分れてるので、雑種になることはない。
 この放流の鱒を捕るのは、主として、菅沼の山の家の近くだった。菅沼は水深く幽寥で男性的だが、山の家の近くは、水がわりに浅く、地勢が明るく開け、餌食も多いとみえて、鱒がよく寄りつく。そこに網を張り、または釣りを垂れる。
 鱒捕りの技術者として、丸沼ホテルに一人の若者がいた。たいてい雨合羽をまとい、魚籠をさげて、朝食後出かけてゆき、八丁滝の急坂を登り、菅沼尻から小舟で山の家まで漕いでゆく。それから雑用をしたり、鱒を捕ったりして、夕刻、同じ道筋を帰ってくる。それが殆んど日課だった。
 鱒はたくさんは捕れなかった。けれども、ホテルで充分の接待をしなければならない賓客がある場合など、名物の魚を欠かしたくないので、それが不足するとマネージャーは困った。そして若者に、何とかならないかと小言交りに言うのだった。若者は泰然と答えた。
「思うようになりませんよ。ことに、あのキャンプ村が出来てからは、どうも……。」
 山の家のそばには、キャンプ場が出来ると共に、貸ボートが数隻並んだ。元気のいい青年たちがそのボートを乗り廻して、鱒網を破損することが多いばかりか、時によるとわざわざ網を引き揚げて、鱒を取ったりすることがあるらしい。それを若者は平気で見遁していた。そしてやはり平然と、毎日のように山の家まで往復して、獲物が多かろうと少なかろうと、網を張ってるのだった。
 冬期は雪が深くて、ホテルも閉鎖し、一同山を下る土地なので、若者がその期間に何をしてるかは不明だが、ホテルが開かれてる間、彼はただ黙々として己が仕事をやり続けてるのだった。何を考えてるのか、不平も野心も影さえ見えず、大自然と同様に落着き払っていた。
 この、哲人的風格を通して見ると、世の人の営みはまことに卑賤だった。
 綾子の病気の頃、田宮の家には若い女中が一人いるきりで、手不足だったから、臨時に、通勤の女中を探すことにした。あちこち頼んでみると、案外に幾人も見付かった。それがたいてい、六十歳前後の婆さんなのだ。朝夕の食事は先方の自宅ですまして、午前八時頃から午後五時頃まで働いてくれる。田宮の愛人の久子が、一日おきぐらいにやって来て
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