れた。久子、と思わず胸の中で呼んだ。
 彼女は最後に、朝から終日、そして殆んど徹宵、次の日も終日、徹宵して、さまざまなことを繰り返し田宮に訴えた。
「大きな渦巻きの中に巻き込まれたような気持ちです。もう何もかも訳が分らなくなりました。ただ穢らわしい。腐ったような臭気には堪えられません。お別れしましょう。」
 そしてその翌日、彼女は毒を仰いで自殺をはかった。幸なことに、その毒薬が、遮光の着色壜にでなく、普通の硝子壜に長年月の間入れられていて、可なり変質していたため、充分に利かず、彼女は生命を取り留めることが出来た。
 綾子が亡くなってから一年後のことだった。綾子は山吹の花が散ってしまってからまだ二ヶ月半ばかり生きていた。その間彼女は、年齢の差から見れば母親とも姉とも言えない久子を、母のようにも姉のようにも頼りにした。そして彼女の死後、久子は看護婦に先立って死体の始末をし、田宮の親戚の者に先立って葬儀を取り計らった。だが、その後の一年間がいけなかった。
 渦巻きとは何であったか。嫉視、反感、阿諛、利慾、その他さまざまなものが入交った告げ口、真偽とりまぜたものに尾鰭をつけ色合を変えた密告で、人の世の最も浅間しい姿だった。久子が聞かされた事柄の概略を順序不同に列挙してみよう。
 A女――田宮さんてずいぶん冷酷なかたね。久子さんはどこといって取り柄はないが、ただ僕を慕っていてくれるから、突っ放すのも気の毒で、先方から倦きるまで、まあそっとしておいてやってるんです、とそんなことを、はっきりは仰言らないが、それとなくあたしに匂わせなすったことがあります。邪推をすれば、むしろあたしの方に気がおありなさるようにも、取れるじゃありませんか。
 B男――田宮君にくっついていられると、きっと不幸な目に逢いますよ。彼は性格的に、ひとを愛することは出来ません。もし愛するとしても、自分自身をしか愛しはしません。それに、あなたのように、ただ向う見ずで一徹なだけで、センスの乏しいひとは、田宮君との仲が長続きはしませんよ。
 C女――田宮さんはこないだ、晴子さんのことをたいへん誉めていらっしゃいましたよ。しとやかで、やさしくて、ほんとに女らしいひとですって。あなた、晴子さんにお逢いなすったことがありますか。あたしは晴子さんてかた存じませんけれど、でも、あのかたはひとの奥さんでしょう。ひとの奥さんを、あ
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