も知れなかった。だけど、真昼間、すぐ人目につくところで、身投げなどするものか。
「大丈夫よ。今は。」
 こちらを向いた彼の眼へ、私はまた言った。
「一人じゃ、いや。」
「分っている。僕も一人きりになるのはいやだ。危いから、こっちへおいでよ。」
「じゃあ、どうするつもりなの。」
「あとで、ゆっくり相談しよう。」
 なにをまだ相談することがあるのかしら。約束した筈ではなかったか。私がじっと見つめていると、彼は言い直した。
「もっとよく、考えてみよう。」
「生きること? 死ぬこと?」
「どちらだって、同じだよ。分ってるじゃないか。さあ……。」
 差し出された手には縋らないで、私は崖縁から身を退いた。
 そして立ち上った。
「ばかね、あなたは。わたしがここから飛びこむとでも思ったの。」
「思やしないよ。」
「思ったでしょう。」
「そんなこと思わないから、危いと言ったんだよ。」
「では、あやまって落っこったら。」
「ほんとに危い。」
「ほんとに危い。……」と私は繰り返してみた。
「もう行こう。」
 なんという愚かな会話だったろう。私はもう彼をからかうのはやめようと思った。彼はへんに憂欝になったらしい。首垂れて、黙って、坂道を下っていった。

 バスの停留所では、二時間ばかり待たねばならないことが分った。面白いこともないし、湖岸の道をぶらぶら歩くことにした。
 雲が次第に多くなり、そして雲行きはけわしくなった。旅館まで半分ほど来たかと思われる頃、雨が降りだした。木陰によけた。それから歩きだすと、やがてまた雨になった。杉木立にかこまれた稲荷堂に雨宿りした。雨がやんだので、急いで帰りかけると、ちょっと雷鳴がして、こんどは可なりの雨となった。避難の場所が見当らなかった。大木の陰も雨雫で同じことだ。濡れながら行くと、野の中に、屋根だけふいてある四方開け放しの小屋があった。その中に飛びこんだ。木片や藁屑があったから、焚火をした。
 それほど寒くもないのに、平田はへんに震えてるようだった。やたらに木片を火にくべて、ぱっと燃え立つと、嬉しそうに手をこすった。
「ああ、これで助った。」
 雨は強く、その中での小屋の焚火は、悲しくて美しかった。私の心は躍った。平田は私を抱きしめてくれるだろう。熱いキスで息をつまらせてくれるだろう。いつまでも私を離さないだろう。けれどもそんなことは、少しもなかった。彼は煙草を吸うのも忘れて、上衣やズボンをしきりに乾かしてばかりいる。私は焚火の焔を見つめながら、佗びしい思いに沈んでいった。そこから浮び出るようにして、あたりを見廻わすと、雨脚の廉ごしに、つき立った山腹が見える。全山紅葉だが、赤色から黄色にいたる色どりがぼーっとかすんでいる。私の眼もかすんできて、泣きたくなった。
「なにをぼんやりしてるの。服を乾かしてごらん。ほら、こんなに湯気がたってきた。」
 彼の服からはほかほかと湯気がたっていた。けれど、そんなことはどうでもよいのだ。靴の中がじめじめしてるのが、服の濡れたのよりは、私には気になる。靴の中のじめじめよりは、心の湿っぽいのが、一層悲しいのだ。
 心情がぼんやりしてるのは、私よりもむしろ彼の方だったではないか。あの山腹の上の方、あすこの峠を、バスは通ってきた。峠の上で、バスは止って、乗客に下車を許すのである。そこで突然に眼界が開けて、湖水が一望のうちに俯瞰される。四方を取り巻いてる山々の中に、二つの半島を抱いて、湖水は青々と深々と広がっている。対岸は茫とかすんでいるが、近くの山々や半島は、黝ずんだ針葉樹林をちりばめて、眼がさめるほどの鮮かな紅葉である。
 私は身も心も硬直する思いをし、とっさに平田を顧みた。
「ほう。」ただ一言、それも殆んど感情のこもらぬ歎声を発して、平田は前屈みに、あちこち頭を動かして眺めている。私には何とも言ってくれないし、どこかを凝視するのでもなく、呆けたように視線をばらまいているのだ。
 その時から、私が期待していた心の的は、どこか遠くへ消えていった。山上の湖水の清冽な空気が、平田には強すぎたのであろうか。それとも、男とは、四十すぎの分別男とは、そういうものなのであろうか。旅館が遊覧客で混み合っているのもいけなかったかも知れない。然し私達はわりに静かな室に案内された。泊り客が少くひっそりしていたとすれば、どうだというのだろうか。平田はへんに情熱を失っていた。東京から二十時間足らずの汽車の旅に、疲れるほどのこともあるまい。前夜は山の下で、ゆっくり眠ったのである。そして湖畔の旅館では、酔ってうっとりしてる彼を、ああ、恥しくも私の方から揺り起した。彼は俄に年老いたようだ。年老いて愚かにさえなったようだ。あの精気と智慧とはどこへ行ったのであろうか。
 月光はいくら明るくても、少し遠くの物のけじめはな
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