かなかつき難い。湖岸からでは、ここへ下りてくる峠道はどの辺か、見定められないし、雨宿りして焚火をした小屋など、見当もつかない。
「あの小屋は、どのあたりになるかしら。」
「そうだね、遠くない筈なんだが。」
見えないことは私には分っていた。こんもり茂った木立の彼方、少し引っ込んだところにあるのだ。それを平田はしきりに物色している。
「月の光りでは、紅葉はだめね。」
「そう、色が消えてしまう。」
「赤いのから、黄色いのへかけて、いろいろあるわね。あれ、葉っぱの性質によるのかしら。」
「さあ。植物学者に聞いたら分るかも知れないが……。」
それきり、私は黙りこんでしまった。もっと気のきいた返事はないものかしら。植物学者……はことにひどい。以前の平田は、こんなとき、詩人らしい楽しい返事をしてくれたものだ。そして私は彼と、どんなつまらないことをどんなに長く話しても倦きなかったのだ。ここに来て、確かに彼はどうかしている。熊の彫り物のせいだろうか。
あの神社の前の土産物店に、いろいろな品に交って、熊と蟇の木彫があった。平田はそれを長い間眺めていた。そして旅館に帰ってから、増築中の仕事場からであろうか、木目の美しい木片を一つ拾ってきて、ナイフで熊を彫りはじめたのである。
神社のところまで行っただけで、私は遠くへ外出したくなかった。湖水には、毎日遊覧船が出ていたが、それにも乗りたくなかった。どうせ、何々の岩とか、何々の松とか、何々の浦とか、何々の島とか、そんなものにきまっている。彼方の対岸には、山水や湧水を湛えてる八十平方キロに近いこの広い湖水の水を、ただ一方の口から流出さしてる急湍があるけれど、それも見に行く気がしなかった。普通の溪流とさして変りはないだろう。他には大して見物するところもないようだ。私はただ旅館の近くをぶらついた。平田も、私を一人残して遠くへ行きたがらず、近くをぶらつくだけで、その他の時間は、新聞をかりてきて丹念に読むか、熊の木彫かだ。どうして熊なんか彫る気になったのだろう。外にする仕事がないからだ、と彼は言った。詩を作ることも面倒くさくなったのかしら。毎晩、濁酒を飲んだ。
彼は詩人なのだ。私立大学の語学教師をし、外国の詩を日本語に飜訳したりしていたが、本当の仕事は詩作にあった筈だ。私は彼の詩の純粋無垢な情緒に心を抉られた。その詩作はどうなったのだろうか。
前へ
次へ
全12ページ中5ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング