。彼は煙草を吸うのも忘れて、上衣やズボンをしきりに乾かしてばかりいる。私は焚火の焔を見つめながら、佗びしい思いに沈んでいった。そこから浮び出るようにして、あたりを見廻わすと、雨脚の廉ごしに、つき立った山腹が見える。全山紅葉だが、赤色から黄色にいたる色どりがぼーっとかすんでいる。私の眼もかすんできて、泣きたくなった。
「なにをぼんやりしてるの。服を乾かしてごらん。ほら、こんなに湯気がたってきた。」
彼の服からはほかほかと湯気がたっていた。けれど、そんなことはどうでもよいのだ。靴の中がじめじめしてるのが、服の濡れたのよりは、私には気になる。靴の中のじめじめよりは、心の湿っぽいのが、一層悲しいのだ。
心情がぼんやりしてるのは、私よりもむしろ彼の方だったではないか。あの山腹の上の方、あすこの峠を、バスは通ってきた。峠の上で、バスは止って、乗客に下車を許すのである。そこで突然に眼界が開けて、湖水が一望のうちに俯瞰される。四方を取り巻いてる山々の中に、二つの半島を抱いて、湖水は青々と深々と広がっている。対岸は茫とかすんでいるが、近くの山々や半島は、黝ずんだ針葉樹林をちりばめて、眼がさめるほどの鮮かな紅葉である。
私は身も心も硬直する思いをし、とっさに平田を顧みた。
「ほう。」ただ一言、それも殆んど感情のこもらぬ歎声を発して、平田は前屈みに、あちこち頭を動かして眺めている。私には何とも言ってくれないし、どこかを凝視するのでもなく、呆けたように視線をばらまいているのだ。
その時から、私が期待していた心の的は、どこか遠くへ消えていった。山上の湖水の清冽な空気が、平田には強すぎたのであろうか。それとも、男とは、四十すぎの分別男とは、そういうものなのであろうか。旅館が遊覧客で混み合っているのもいけなかったかも知れない。然し私達はわりに静かな室に案内された。泊り客が少くひっそりしていたとすれば、どうだというのだろうか。平田はへんに情熱を失っていた。東京から二十時間足らずの汽車の旅に、疲れるほどのこともあるまい。前夜は山の下で、ゆっくり眠ったのである。そして湖畔の旅館では、酔ってうっとりしてる彼を、ああ、恥しくも私の方から揺り起した。彼は俄に年老いたようだ。年老いて愚かにさえなったようだ。あの精気と智慧とはどこへ行ったのであろうか。
月光はいくら明るくても、少し遠くの物のけじめはな
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