は多岐多面である。だから一般に彼は、なにか親しみ難い怪物的なものに見えたようだが、人柄は実践的なヒューマニストであった。
 彼の断片的な評論の多くは、一種のモラリストを浮出させる。茲にモラリストと言うのは、社会万般の事象を人間としての立場から批判する知性、ヨーロッパに於ける十七八世紀あたりのそれを指す。これもまた彼の表現がオルソドックスな形を取った所以でもある。このようなモラリストは、本来的にヒューマニストである。
 ヒューマニストたる三木の性情は、日常では、何等のポーズも取らない素朴な態度として現われていた。彼には全くポーズというものがなかった。ありのままの素朴さで吾々に接した。深い叡智と高い知性で饒舌りまくることはあっても、また鋭く人の虚を衝くことはあっても、そしてそのために一部の人々から敵視せられることもあったが、彼自身はただ虚心坦懐に振舞ってるに過ぎなかった。彼に対してはすべて、如何なることがあっても怒る方が無理だ、と常に私は思っている。
 言論の上に於て、彼は余りに多くの対象を取り上げすぎたかも知れない。然し日常の私的生活は、余りにといえるほど控え目だった。最初の夫人を亡くして後、既に義兄だった東畑精一氏の世話で二度目の夫人を迎えたことなど、吾々の多くにも知らせもしなかった。
 このいと子夫人が病気ではいった病院は、私の住居のすぐ近くにあった。だが彼は、私の方から見舞いに行くまで、そのことを知らせなかった。友人知人に迷惑をかけたくない思いと、自分のことは自分だけでやってのけようとの思いと、両方があったのであろう。もっとも、いと子さんの入院当初、私は一ヶ月ほど上海に行っていて、家には娘と女中きりだった。
 上海から帰ってから、私はいと子さんの入院を知り、見舞いに行った。お嬢さんの洋子さんや付添いの人もいた。三木は高円寺の自宅からこの本郷の病院まで、遠いところを毎日通って来て、数時間の看病をした。一昨年の暮から昨年の初にかけた頃で、万事不自由な窮乏な時勢に、食糧を調達し薬剤まで探して来た。所用の都合や病状の如何によっては、どんなにでも私の家を利用してくれるようにと、私は繰り返えし言ったのだが、彼は遂に一夜も私の家に宿泊しなかった。
 いと子さんの病気は肝臓癌で、手のつけようがなく、じりじりと重くなっていった。本人はそれを知らず、ひたすら退院の時期を希求していた。その心と肉体とを三木はいたわりつつ、死亡より一週間ばかり前に退院さしてやった。この前後のことについて、三木の大きな温い心尽しが感ぜられる。
 三木自身も、どうせ亡くなるものなら、せめて、一週間ばかりでも自宅で静かな気息をさしてやりたかった。拘置所で、彼は独り、何かをじっと見つめていたらしい。身辺のことについても、縁故者として東畑精一氏の名前を挙げただけで、誰の名前も告げなかった由である。そうした三木に対して、吾々は数々の心残りを感ずる。
 獄中での彼の急逝について、それを、哲人的な高い悲運と観ずる気持ちには、私は到底なれない。ただ残念である。彼自身も残念であったろう。

 生前の三木の仕事としては「構想力の論理」を頂点にあるものとしたい。然しそれさえも、第一部が出版され、第二部が原稿として出来てるだけで、而もまだ未完である。所謂三木哲学の大成は、すべて今後に俟たねばならなかった。
 専門的なことは私には分らないが、俗眼を以て観れば、三木にあっては論理と直観とが同一線上に合体しているかのようである。この点、吾々文学者が彼の著述に心惹かれる所以である。
 著述は別として、彼は日常、達識による直観的洞察力をしばしば示した。
 些事を言えば、大戦前、支那事変だけの頃、彼は自宅の庭にりっぱな防空壕を作った。近所の人々は目を見張ったそうだが、吾々はつまらなく思った。彼は言った――君たちも今に防空壕を作るようになるよ。
 果してそうなったが、然し、これは別に驚くほどのことでもない。なぜなら、これより少しく短見的ではあるが、時勢にうとい私でさえ、砂糖砂糖と騒がれてる頃、今に砂糖時代は過ぎてやがて食塩時代が来ると言ったものだ。ただ、そう言いながらも私は一向に食塩の用意をしなかったが、三木は言う前に防空壕を実際に作った。
 私の心に深く残っているのは、ヒットラーに就いての三木の予言である。ドイツ軍がポーランドを席捲したあの頃の軍績華かな時に、三木は断言した――ヒットラーは自殺する。
 ナチスの焚書事件以来、私はヒットラーを憎んでいたし、なにか無理なところと一抹の曇りとを彼に見出してはいたが、まさか自殺の予想はつかなかった。が、三木は、その自殺を断言し、常に説を変えなかった。――現在、ヒットラーが戦死したか、自殺したか、生きのびているか、未だ確証されてはいないが、いずれにしても自殺的末路たることに変りはない。
 この種のことは、三木についてはまだあるが、もう止めよう。書いているうちにひどく淋しくなった。彼を失ったことは実に淋しい。彼の死は吾々にとって大きな損失であり、日本にとっても大きな損失であるが、それはそれとして、人間三木を失ったことが淋しいのである。
 三木は笑うであろう。損失のことはよいとして、淋しいなどと言えば、笑うであろう。宜しい、出来得べくんば、三木の知性から吾々は新たな時代に出発したいものと思う。



底本:「豊島与志雄著作集 第六巻(随筆・評論・他)」未来社
   1967(昭和42)年11月10日第1刷発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2006年4月27日作成
青空文庫作成ファイル:
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