はいつもにやにや笑っていた。ところが、或る時彼は言った――そのように政治を偏狭に考えてはいかんよ。
 彼の政治論は彼の人生論と裏合せだった。政治嫌いを公言してる私が、特殊な自治とか特殊なアナーキズムとかを夢想してることは、彼から見れば可笑しかったであろう。然し彼はいつもおおらかな笑顔で私の偏狭な政治嫌いを受け容れてくれた。

 物にこだわらないおおらかな笑顔を、私はいつも彼のうちに見出した。
 私はいろいろの人と碁をうったが、三木ほど敵愾心の起らない相手は珍らしかった。彼を相手にしていると、勝負などはどうでもよくなるのである。彼の棋力そのものも甚だ他愛ないもので、日によって甚しく差異があり、またその棋理も茫漠としていた。戦争中、軍報道部からの徴用でフィリッピンに行き、帰って来てからは、暫く碁に遠ざかっていた逆作用でか、いくらか着実となり、更に鷺宮へ疎開した後の高円寺の留守宅を預ってる野上彰君から、多少棋理の説明を聞き、いくらか腕前が上ったようだが、それもすべて、いくらかの程度に過ぎなかった。ひどく早うちで、悦に入ると盤上に涎を垂らすこともあった。
 三木が二度目の夫人を亡くした後、その孤居を慰めるという口実で、私達は何度か彼の家で碁会をやった。集まる者は、大内兵衛、高倉テル、私など、少数だった。高倉君は人がわるく、言論戦でごまかして勝とうとした。三木もそれにつりこまれて憤慨的言論で応酬したが、碁の方はあまりうまくゆかなかった。
 彼を相手にしてると、私は碁に気力がこもらなかった。勝負などはどうでもよく、ただ棋の運行が楽しまれた。同時にまた、どんな無茶な手でも平気で打てた。
 碁に於てばかりでなく、すべてに於て、彼は最も気兼ねのいらない友だった。何を言っても、何をしても、彼に対してはてれるという気持ちが起らなかった。奥底に徹する深い理解が彼にあるという、一種の信頼感が持てたのである。
 打明けたことを言えば、私は嘗て、芸妓と余りに公然と馴染を重ねて、友人間に物議を招いたことがある。芸妓と懇親な間柄になったのが悪いというのではなく、貧乏な身分柄も顧みず余りに公然とそうした振舞いをするのが、怪しからんというのである。ところが私としては、貧乏は持ち前のことだし、また、公然をてらったのでなく、所謂お忍び的行為が全然出来なかったまでのことである。――その頃、彼女と同席で最も気兼
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