三つの悲憤
――近代伝説――
豊島与志雄
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)李《すもも》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)小説4[#「4」はローマ数字、1−13−24]
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ある田舎に、阮という豪族の一家がありました。
阮家の一人息子の阮東は、志を立てて、都に出ました。そして学問をしながら、長官の周家に、書生として暮すことになりました。
その翌年の春さき、阮東は周家の令嬢素英と親しくなり、いつしか愛を語らう仲になりました。けれども、それも一ヶ月ばかりの間で、素英から急に疎んぜられるようになりました。
阮東は、頭髪を乱し、悲しみに胸をふくらまして、何事も手につきませんでした。そしてよく裏庭へ出てゆきました。その片隅に、竹藪があり、竹藪のそばに四五本の李《すもも》の木があって、白い花が咲いていました。阮東はその花の下で、熱い涙を流して泣きました。
夜通し一睡も出来なかった日の、朝早く、阮東はまた李の花の下に来て、泣き悲しんでいました。
すると、爽かな細い歌声が聞え、やがて、空色の化粧着をつけた素英の姿が、まるで幻のように現われてきました。
阮東ははっとして、息がつまり、血の循りがとまり、ただ眼を大きく見張りました。そして暫く見ない彼女の姿を、じっと見つめていましたが、次には、かっと逆上して、そこに走り出で、彼女の足もとに跪きました。
「ああ、お嬢さん、よく来て下さいました、よく来て下さいました。私は毎日、毎夜、ここにこうして、あなたをお待ちしておりました。」
けれど、何の返事もありませんでした。素英は一足とびしざって、棒のようにつっ立ち、じっと阮東を見すえてるきりでした。
阮東は涙声で訴えました。
「私はもう、あなたと離れては生きてゆけません。あなたと一緒なら、死んでもかまいません。死んで下さい、一緒に死んで下さい。」
凍りついたような素英の眉が、ぴくりと動きました。そして風のようなすげない声がしました。
「そこをどいて下さい。私は髪にさすために、李の花を取りに来たのです。」
「おお、李の花……。」と阮東は叫びました。「あなたの髪のために、私に取らして下さい。一番美しい花を……蕾から咲きだしたばかりで、まだ蜂も虻もとまったことのない綺麗な花を、私が取ってあげます。」
「いけません。」と風のようにすげない声がいいました。
「私はあなたとお話することを、母から厳重にとめられております。あなたに御用をたのむことを、父から厳重にとめられております。こうしてお目にかかるのも、私は、心が咎めてなりません。」
「それは間違いです。いえ、それならば……向うをむいていて下さい。私の方を見ないで、そこに待っていて下さい。一番きれいな花を、私の心をこめた花を、取ってあげます。」
阮東は直ちに、李の木の大きなのに駆けより、その幹をよじのぼり、高い梢を引きたわめて、目につく一枝――蕾から咲き出たばかりでまだ蜂も虻もとまったことのない美しい花の一枝を、折り取りました。そして飛び降りてきますと、もう、素英の姿はどこにも見えませんでした。
幻を見たのでしょうか。幻と話をしたのでしょうか。――阮東は頭を振りました。手にしてる李の花を眺めました……。
やがて、彼は幻にでもひかれるように、李の花を持ったまま、ふらふらと歩きだしました。
土塀の小門をくぐって来ると、広い中庭で、池を中心に、太湖石が奇怪な形につみ重ねてあります。
「お嬢さん……素英さん……。」
阮東は口の中で胸いっぱい叫びながら、池のほとりまで来ましたが、池の澆水のつきるところ、高廊の朱の柱が眼にしみると、もう先へは進みかねて、そこの、飛竜の形の岩に身をなげかけ、さめざめと泣きました。
時たって、高廊の上に、周家の主人が立現われ、朱の柱に左手をかけ、右手を握りしめ、のびあがってじっと阮東の方を睨まえました。
「阮東……不埓者、阮東。」
怒りに震えた雷のような声でした。
「書生の分際で、お前は、周家の娘を何と心得ているのだ。そういう不埓者は、もう邸に置くことは出来ない。出て行け。即刻立ち退け。」
その言葉を阮東は胸の真中に受けて、仰向けにひっくり返りそうになりました。そこを持ちこたえようとしたはずみに、足がよろけて、池の中にざぶりと落ちこんでしまいました。
水は胸の下までの深さでしたが、横倒しに落ちこみましたので、彼は一度水に沈んで、それから慌て騒ぎ、夢中にあばれて、漸くはい上がり、そのまま、裏庭の方へ駆け出しました。
池の中には、李の花の一枝が、花弁を幾つか散らして、ゆらゆらと浮いていました。そのそばに、阮東の黒い沓が片方、ぽかりと浮いていました。
阮東は、裏庭から書生部屋の方へかけこみ、床《ゆか》の上に身を投げ出して、死んだように横たわっていました。もう眼も開かず、泣く力もありませんでした。
長い間たちました。誰も見舞ってくれる者もありませんでした。阮東は身体中つめたくなったのに気付いて、ぼんやり起き上りました。そしてそこに坐ったまま、また長い間じっとしていました。
万事窮した、面目もすべてつぶれた、と彼は思いました。
その午後、彼は黒い絹の晴着をつけ、片足によごれた沓をはき、片足ははだしのまま、街に出て、百貨店に行き、上等の沓を買ってはきました。そして六階の塔の上にのぼりました。
塔の上から眺めると、都会の煤け黒ずんだ屋根並が、いろいろな勾配をなして、無心にごたごたと並んでいます。狭い深い街路には、蟻のような人通りです。
そうだ、ここから……と彼は何かに促されたようで、ぞっとしました。眼の下の深いところへと、強い力が渦巻きこんで、その中に自分も巻きこまれる気持でした。
その、巻きこまれる前に、彼はふと眼をあげて、うつろな瞳を空に向けました。鳥が一羽、宙に浮いていました。その映像が次第に生きてきて、力強い悠長な鳶となり、鳶は空高く、両の翼を張って、大きな圏を描いて舞っています。
彼の瞳は鳶に囚えられました。囚えられながら輝いてきました。身内からあらゆる悲しみという悲しみがわき出し、それが大きな憤りと変ってきました。自分自身に対する、また世の中に対する、大きな憤りでした。
彼の全身は震えおののいて、そこに屈みこんでしまいました。そして彼は両膝に顔を埋めて泣きました。泣きながら、歯をくいしばり、両手の拳を握りしめました。
久しくたって、彼はその塔からおりてゆきました。憤りに燃え立った恐ろしい顔をしていました。
それから四年ほどたった秋のことです。阮家の近くの、海岸寄りの湖水のほとりで、阮家に出人りをしている老船頭の張達が、煙草をふかしながら、湖水に小舟を浮べて網の寄せ打ちをやっている漁夫たちを、笑顔で眺めていました。
その湖水の渚を、馬上でやってくる二人の男がありました。いずれも逞しい若者で、粗末ながら乗馬用の服装をし、腰には拳銃らしい革袋をさげ、鞍には大きな荷をつけていました。
その二人は、時々なにか語りあいながら、渚づたいにゆっくり馬を進めて来ましたが、張達の前まで来ると、一人がぴたりと馬を止めて、声をかけました。
「お前は、張達ではないか。」
張達はとびあがらんばかりに驚いた様子で、それからもう頭をさげて、はいはい……とお辞儀ばかりしています。
若者は馬からおりて、張達の肩を叩いていました。
「何をしてるのだ、張達、僕が分らないのか。」
「はあ、あなた様は……。」
張達は上眼使いに、若者の顔を見ていましたが、ふいに、わっと大きな声を立てて、両手を差出しました。
「おう、阮の若者でいらっしゃいましたか。私はまた、匪賊……なにかと思って、びっくり致しました。若様で、……よくまあ無事に帰っておいでになりました。」
「ああ、御無沙汰をした。御両親とも達者かね。」
「はい、それはもう……。」
張達は涙の眼をしばたたいて、袖で鼻を拭きました。
「お前に逢って丁度よかった。」と阮東はいいました。
「邸まで案内してくれないか。そしてお前から、御無沙汰のお詫びを御両親にしてくれないかね。いきなり馬を乗りつけるのも、ちょっと気が咎めるからね。あの男は、僕の伴をしてくれた友人で仔細ないのだ。」
阮東は、友の范志清を呼んで、張達に紹介し、それから、家郷のことをいろいろ尋ねました。
張達のいうところに依りますと、四年前、阮東が失踪したことは、周家から阮家へも知らせがありました。何か阮東に不始末なことがあって、周大人がこらしめのためにひどく叱りつけ、あとで詫びに来たら懇々と説諭してやるつもりでいたところ、阮東はそのまま失踪してしまったとの由で、阮家の人たちは歎き悲しみ、朝に夕に、消息を待ちあぐみ、はては人を遣って探らせたが、其の後のことは更に手掛りもなく、悲しい遺品だけが周家から届いたに過ぎませんでした。それから一年たち、二年たち、三年たつうちに、阮大人は阮東のことを口にするのを禁じてしまいました。けれど、口にしないだけに、想いは胸に深まっていったようで、めっきり老けてきました。それだけのことで、阮一家には、他に何の変りもありませんでした。ただ、近頃、その辺にも匪賊が侵入してきて、三ヶ月ほど前、数千金を奪ってゆかれた上、また、多額の金を、明晩までに要求されてるとのことでありました。そして阮大人は、何と思ってか、今晩、一家中で盛宴を催すとかで、そのために、張達は漁夫たちを指図して、湖水の美魚を捕えているのでありました。
「よいところへ帰っておいでになりました。天の思召しに依るのでございましょう。」と張達は涙ぐんだ眼を輝かせました。
そして張達の案内で、二人の騎士は、大きな阮家の門をくぐりました。
邸内にはいると、張達は俄に老年を忘れたかのように、駆け廻り、喚き立て、前後の筋途もなく饒舌り立てました。
豪族阮家の大勢の人たちが、急いで飛び出してきて、阮東と范志清とを取巻きました。阮東はその一人一人に向って、ただ黙って頭をさげました。それから、母親の胸には顔を埋め、父親の前には跪きました。
「遠くから来たようだ、少し休息させなさい。」と阮大人は誰にともなくいいました。
その言葉が、阮東の胸にしみました。
けれど、阮東はゆっくり休息するひまがありませんでした。準備されていた盛宴は、阮東を迎えるためのものと変って、早くから初められました。
両親をはじめ一家の人たち二十人ばかり、みな顔を輝かしていました。阮東だけはなんだか沈痛な顔色でした。范志清はにこにこして、自分の家にでも来たように落着きはらっていました。
阮東は、一同から尋ねられても、これまでの四年間のことをあまり、話しませんでした。概略のところ、周家を出てから、知人を頼って、西方遠くの或る都市の匪賊討伐隊に加わったこと、そして時折戦闘もしたが、それよりはおもに、隊の医務をやっていた老人から、本草の学をまなんだこと、そしてその老師が亡くなったので、休暇をもらって帰省したこと、大体そんなことだけでした。
「この范君は、僕以上によく知っています。」と彼は口を噤んで苦笑するのでした。
「ははは、阮君のことなら、阮君自身よりもよく知っていますが。皆さんに御披露するほどよくは知りませんよ。」と范志清は快活に笑うのでした。
二人の友人の間には何か秘密な了解があるようでした。
食卓には、田舎で出来る限りの料理が、次々に持出されました。犢の肉や臓物、豚の肉、まるのままの鶏、湖水のいろいろな魚や蝦、葱や大蒜《にんにく》や茴香、栗や筍、それからまた、百年もたったという老酒の甕も取出されていました。
ところが、料理が食べ荒され、酒が汲み交されるにつれて、賑かになるべき一座の空気は、却って沈んでゆくばかりでした。酔った范志清の高笑いが、へんに浮き上って耳につくようになりました。
阮東は、側に坐ってる父親に、声をひそめて尋ねました。
「匪賊の要求は、いか
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