る女中たちの中で、美喜はすぐれて美しいし、お父さんが特別に可愛がって、大事に召使っていられますから、身近に妹がいるとすれば、きっとあの美喜に違いないと僕は思ったのです。それでは、美喜は僕の妹ではないのですね。」
三英は元の前に進み出て、いきなりその胸に飛びついていいました。
「お父さん、僕たちは愛し合っているのです。それが、もし兄弟だったらどうしようかと、どんなに泣いたでしょう。兄弟ではないんですね。僕は嬉しい。美喜も喜ぶでしょう。すぐ知らしてやりましょう。こんなに嬉しいことはありません。」
三英は元の胸から飛びのいて、駆け出していってしまいました。
三英が飛びのいた反動で、元は椅子に倒れかかりましたが、そこで踏み止まって、暫くはじっとうつろな眼を宙に据えていました。やがて悪夢からさめたかのように、ぶるぶると首筋を震わして、突然わーっと大声を立てました。泣いてるのか笑ってるのか分らない大声で、なお喚き続けながら、そこの壁に頭をどしんどしんぶっつけました。唐草模様の美しい紙ではられてる壁面がまるく凹むかと思えるほど、頭をぶっつけ、狂人のように喚き立て、卓子の上の五彩の花瓶が転り落ちて、微塵にくだけ、大きな響きを立てました。
その物音を聞きつけて、執事がやって来ますと、元は紙毯の上に死んだように横たわっていました。
執事は召使たちを呼び、元を寝室に運び、酢をわった水でその額を冷してやりました。
元は身動きもしないで寝ていましたが、ふと眼を開き、ぐるりと室の中を見廻して、そして叫びました。
「私は孤独だ。私はもう死ぬ。財産もいらない。愛情もいらない。世の中もいらない。私はもう死ぬ。」
ぷっつりと言葉を切って、眼玉をぐるりとさして、瞼を閉じました。それきり静かになりました。呼吸も静かでした。突然眠ってしまったかのようでした。
執事は一切のことが腑におちないかのように、ゆるく頭を振りました。そして暫く、寝息のように静かな元の呼吸を窺っていましたが、また頭を振って、後退りしながら室から出てゆきました。
それから三日後に、元は脳溢血で倒れ、そのまま息を引取りました。その死体のそばで、一英と二英と三英とは、大声を張りあげ大粒の涙を流して、歎き悲しんだそうであります。
底本:「豊島与志雄著作集 第四巻(小説4[#「4」はローマ数字4、1−13−24])」未来社
1965(昭和40)年6月25日第1刷発行
初出:「知性」
1940(昭和15)年10月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2007年5月6日作成
青空文庫作成ファイル:
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