。お前の妹は私たちの身近にいる。誰がそれだとは今はいえない。近いうちにきかしてあげる。とにかく、このことを胸においておくがよかろう。」
「お父さん……。」
 元はそれを手で制して、室から退けました。
 そこで、元は暫くぼんやりしていましたが、俄に我に返ったように、にたりと不思議な笑いをして、銀瓶に残ってる酒をたてつづけに飲みほし、ふらふらした足取りで、寝室へはいってゆきました。
 寝室で、彼はまたにたりと笑い、着物のまま寝床にとびこみ、大きな鼾をたてて眠りました。

 それから数日、元はなにか深い物思いに沈んでるようでありました。外出もせず、訪客にも逢わず、居室に閉じこもっていたり、黙々として邸内を歩いていたりしました。
 そして一週間後、執事がおずおずと元の前に叩頭しました。
「内々御指図を承りたいことがございます。」
「何だ。」と元は大きな声をしました。
 執事は反対に声をひそめました。
 一英が、ごく秘密に二万金ほしいと頼みこんだ由であります。執事の見るところでは、危険な相場を初めているらしく、どう取計らったものかと迷っているのでした。
「よろしい、私が処理する。」と元は叫びました。
 すると執事は、ほっと吐息をついて、また小声でいいだしました。二英がサラブレットの駿馬を買いたがってる由であります。馬は既に二頭もあるのに、数千金の馬を更にほしがり、執事に内密の相談をもちかけたのでした。
「よろしい、私が処理する。」と元は叫びました。
 すると執事は、なお囁きました。三英が元の待女の美喜と、抱き合って泣いていたそうであります。執事が物影から立聞きすると、兄様とか妹とかという泣声が洩れたのだそうでありますが、あの二人は兄妹であられるのか、不思議とも訝しいとも、執事は考えように迷ったのでありました。
「よろしい、私が処理する。」と元は叫びました。
 執事がなお何かいいかけるのを、元は耳もかさず、歩き去ってしまいました。

 その日、そしてその一晩中、元は香りの高い強烈な葉巻をくゆらしながら、室の中を歩き廻っていました。ひどく怒っている様子なので、誰も近づきかねました。
 翌朝、元は召使をよんで、三人の子供を順次に居室へ来させるよう命じました。
 一英が身装をととのえてやって来ますと、元は寝間着の上に金繍の長衣をはおって、葉巻をふかしながら、しきりに歩き廻っていました。
 元はぴたりと立止って、いいました。
「私が破産しかけているのに、お前はなんということだ、寄りつきもしないで、危険な相場を初めたというではないか。ばかな。これからは断じて許さない。金がいるなら、ここに二万金あるから持ってゆくがよい。ただことわっておくが、私が破産しかけているというのは、あれは嘘だ。私の財産にはまだ少しの破綻もない。」
「え、本当ですか、お父さん。それなら安心しました。これから大胆に相場が出来ます。今夜は愉快に友人たちと飲みましょう。お金は頂いていきます、有難うございました。」
 一英は金を掴んで、呆気にとられてる元を残して、駆け出していきました。
 暫くして、二英が眠そうな眼をしばたたきながらやって来ますと、元は両手を組んでじっと佇んでいました。
 元はじろりと見やっていいました。
「私がいつ死ぬか分らぬ身体なのに、お前はなんということだ、寄りつきもしないで、馬ばかり買いたがっているというではないか。ばかな。これからは断じて許さない。金がいるなら、ここに五千金あるから持ってゆくがよい。ただ、ことわっておくが、私が死にかけているというのは、あれは嘘だ。私の身体には少しのひびもはいっていない。」
「え、本当ですか、お父さん。それなら安心です。馬でも自動車でも存分に走らせることが出来ます。これから早速遠乗りに出かけましょう。お金はいただいていきます、有難うございました。」
 二英は金を掴んで、惘然としている元を残して、駆け出していきました。
 暫くして、三英が小鳥のような眼付をしてやって来ますと、元は卓子に両肱をついて掌で頭をかかえていました。元は急につっ立って、三英をじろりと見ましたが、くるりと向きなおり、窓から遠い空の方に視線をやりながら、いいました。
「私が家の血統のことをいろいろ思い悩んでいるのに、お前はなんということだ、寄りつきもしないで、侍女の美喜と手を取り合って泣いたりしているというではないか。ばかな。そういうことは断じて許さない。男というものは、淋しい気持に陥ると、ばかげた幻を描きだすものだ。然し、幻などは打消すだけの力を持たなくてはいけない。はっきりことわっておくが、お前に妹がいるというのは、あれは嘘だ。お前たちは男三人兄弟きりで、ほかに血縁の者はいない。」
「え、本当ですか、お父さん。それでは、美喜は僕の妹ではないのですね。十人もい
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