。」
「私はもう何にも云うまい、自分一人で自分の苦しみを堪えてゆこうと幾度思ったことでしょう。それでもやはり何かに頼りたかったのでした。あなたの前に何だか黙っては居れなかったのですもの。……ほんとに私はどうすればよかったのでしょう。」
「過去のことはもう何にも云いますまい、ね。ただ未来を見つめて生きましょう。それの方がいいのです。」
「未来ですって?」
「ええ、」と答えたが孝太郎は急に何かに引き戻されたような気がした。「余り考えるといけません。」
「偽りを仰言っちゃいやです。私は苦しいんですから、そして迷ってしまいますから。偽りが一番今の私にはつらいのです。」
「もうそんなことを云うのは止しましょう。」と孝太郎は云った。「私達の間に何の虚偽があったでしょう? 種々な言葉を玩《もてあそ》ぶより黙っていましょう。ねえ、黙っている方が心が静まるでしょうから。」
「ええ、」と富子は低く答えた。
「ただあなたは自分のお心を静に保っていらるればそれでいいのです。何にも考えないで心を静にしておいでなさい。そのうちには恒雄さんだって……。」
「恒雄!」と富子は思わず叫んだ。そして身を堅くしてきっと孝太郎を見た。然しそれは一瞬のうちに過ぎ去った。彼女はまた力なく首垂れてしまった。
「どうなすったのです。」と彼はきいた。
「いいえどうも。」
「私は恒雄さんを信じています。」
富子は眼をあげてただじっと孝太郎を見た。
「此の頃では、」と彼女は云った、「何かしきりに考え事をしているようです。そして怒《おこ》ることがよほど少くなりましたけれど……。」
「けれど?」
「私には温くして貰うより、冷たくして貰う方がいいんです。」
孝太郎は一寸身を震わした。そしてじっと彼女を眺めた。その頬から頭への肉付を見ていると、何か悩ましいものに襲われた。
富子はほっと吐息をした。重苦しいものが二人の間に挾ったのである。二人はそれきり沈黙のうちに、静に移ってゆく庭の日影に眼を落した。狭い庭にも秋の凋落が何時とはなしに襲っている。淋しく立った樹々の幹には孤独の影が冷たく凝結して、その向うを限った板塀の節穴から、ほろろ寒い気が流れてくる。
孝太郎は過ぎし日を思った。初秋の頃、彼は富子と二人でよく黙ったままいつまでもじっとしていることがあった。その頃女の心には悩みと儚《はかな》い希望とが満ちていた。彼はその心をやさしい慰安の眼でじっと見守った。そして二人の間にはしみじみとした温情が流れていた。それがいつのまにか、彼の心には暗い影がさし、女の心にはフェータルな影がさしてきた。二人の間に交わされたものは止むすべもない数度の唇と腕との抱擁にすぎないけれど、それが二人の間の気分を全く初めと異る色に染めなしてしまった。
「私もうあなたなしには生きてゆけない。」と富子は思いつめたように囁いた。
「私達はお互に悔いの無いような途を進まなくてはなりません。あなたはふっと嫌な影が心にさすことはありませんか。」
「いえ、どうしてでしょう? 私あなたにお目にかからなかったら今頃はどうなっていたことでしょう。」
「私も多少でもあなたのお力になったのならどんなにか嬉しいんです。」
「いつまでも私のお友達になって下さるんでしょうね。」
「ええあなたさえそうでしたら。」
「私あなた一人がお頼りですもの。」
「私は何だか自分に力が無くなってゆくような気がします。何だかこう自分の足下が不確かなような……。」
「私ももう……。」そう云って突然富子は孝太郎の肩を捉えた。
二人はじっと互の眼に見入った。その時、孝太郎の云った言葉の真の意味は、富子の眼差しに征服されてしまっていた。孝太郎ももうそれを意識してはいなかった。
彼等のうちには一瞬間凡ての忘却があった。そしてその周囲に淡い日の光りがあった。
恒雄はいつも午後の五時頃に社から帰って来た。でも時によると三時頃に帰って来ることがあった。そういう時は大抵孝太郎の所謂サロンで彼と何かの話をしながら、夕食までの時間を過すのが常であった。或る日もやはり彼は早く帰って二階に上って来た。
その時孝太郎は寝椅子の上に横になって空を見ていた。恒雄はすぐに其処にあった坐蒲団の上に大儀そうに坐った。それは先刻まで富子がしいていたものであった。
「職業の方はどうです。」と恒雄はきいた。
「さっぱりまだ手掛りがありません。」
孝太郎はこう答えながら自分の身をかえりみた。彼は学校を卒業してある職業を探しながら閑散な日を送るようになってから、種々の都合上恒雄の家に起臥するようになったのである。それからもう半歳余りの日が過ぎた。彼はただ閑散なるままに懶惰な生活をして時を過した。
「君のように何時も呑気だといいですね。」
「そう呑気だというんでもありませんけれど、何だか世間のことはうるさくて。」
それから二人は暫く種々な世間話をした。けれど孝太郎はそうしているのが次第に不安になって来た。恒雄が何かを押し隠すような風にしているのが気にかかったのである。それで直接にこう尋ねてみた。
「何だか今日は少し苛ら苛らしていらるるようじゃありませんか。」
「ええそうかも知れません。」と恒雄は平気で答えた。
「何か御心配のことでも?」
「やはりいつもの問題なんです。僕は常にそればかり考えさせられるようになったんです。そして次第に悲しい結論に達してきます。」
「結論だと仰言ると?」
「さあ何と云ったらいいですかね。……まあ一口に云えば僕は到底富子と根本から相容れないということです。」
「それは無理にそういう風に考えようとなさるからではないでしょうか。実際あなたは余りに富子さんの過去に拘泥しすぎていらるるようです。」
「いやそうでもないんです。と云うのは、僕は今迄と別な方面から考えたんですがね。実際僕は今迄ただ妻をじっと見ていたきりで、自分の方はお留守にしていたんですね。それも妻というものに余り期待を大きく持ちすぎていたからでしょう。僕の理想は現実から美事に裏切られてしまったのです。それを僕はなぜだなぜだと云って妻に責めまた自分に責めたんです。現実の姿に向って何故だと問うのは過去を現在に返せというのと同じに馬鹿げたことなんですね。で僕はもう妻に向ってなぜ僕の理想通りでないのかと責めはしませんでした。その代りに富子という者と僕という者とを別々に引き離して見てみたんです。すると僕と富子とはどうしても相容れない二つのものだと思うようになったんです」
「するとあなたは全く孤独を見出されたわけですか。」
「いや全くの孤独というものを僕は信じません。実際僕は自分を見る時、自分のうちに妻の……そうですね、匂い、息、いや兎に角何かを見出すんです。僕のうちには妻《あれ》の肉体が深く喰い込んでいます。それにどうでしょう、僕の心と妻《あれ》の心とは全く背中合せに反対の方を向いているんですからね。」
「それはあなたが富子さんの心に触れる場所が悪いという故じゃないでしょうか。どんな人の心にも屹度ある方面から見れば温い柔い部分があると私は信じますね。そして其処からその人の心に触れる時には、手を合わしたいような敬虔な心持ちが起る筈です。そういう態度を押し進めてゆくと、しまいには愛ばかりが残る筈だと思っています。」
「君はそれを広い愛というものよりもっと狭くて深い所謂恋愛というものにもあてはめようと思っているんですか。」
「私の恋愛観は別の問題です。然しともかくもあなたの富子さんに対する態度は其処から初めるのが正当だろうと思いますが。」
「或はそうかも知れません。然し僕の妻に対する強い愛着をどうしましょう。現在の妻のうちにある彼女の過去をどうしましょう。それから二人の間の冷たい反目をどうしましょう。今になってはもう後戻りの出来ない位、それらのものが深く根を下しています。僕はまあ云ってみれば美しい栗の毬《いが》を胸に抱いているようなものです。もう離れて見れないほど強く密接に抱いているんです。それでも畢竟は僕の胸と栗の毬とは相容れない別々のものなんです。何れかが壊れなければ……。」
「それでは毬を壊して中だけを抱くだけでしょう。」
「それには僕と妻と全く別々の離れたものにならなくては……。」
「え!」と孝太郎は声を立てた。
二人は黙って顔を見合った。彼等の興奮した頭に不祥な影がちらっと閃き去った。
孝太郎はつくづくと恒雄の顔を見守った。その心持ち下脹れの顔の輪廓と、多少角ばった※[#「臣+頁」、第4水準2−92−25]の筋肉と強い眼の光とを彼は見た。
「一体それでどうなさるおつもりです。」と孝太郎は云った。
恒雄は若《にが》い表情をして遠くの方を見つめた。
「やはり僕と富子とは夫婦ですからね。」
孝太郎は何かに冷りとして黙し込んでしまった。彼は顧みて、自分と富子と、それから恒雄との間を思ってみた。そして其処に何か調子外れたような不安を見た。
「もう下らない話は止しましょう。」と暫くして恒雄が云った。彼はきっと唇を結んで、右手の拳でじっと畳の上を押えつけていた。
彼等はそれから何かつまらぬことを暫く話していた。然し妙に冷たい隔《へだた》りが二人の間にあった。
時が次第に冷やかなものを三人の間に持ち来した。彼等は何とはなしにただじっと互の心を探るように黙ってしまうことがあった。そして孝太郎は一人で、どうにかしなければ、どうにかしなければ……と苛ら立った。
或晩皆で茶の間に集った時、富子の顔には執拗な高慢の影がさしていた。そしてその凡てを反撥せんとする冷静と、恒雄のじっと動かない瞳とが、相互にある反映をし合って昂じてきた。で孝太郎は勉めて快活を装った言葉を発してみたけれど、すぐに恒雄と富子との緊張した沈黙に感染して黙り込んでしまった。
「葡萄酒を少しくれないか。」と恒雄が云った。
富子は黙ったまま立ち上って壜とグラスとを持って来た。それから女中の手から水菓子の盆を受け取って恒雄の前に置いた。そして「はい。」と云った。
恒雄はその言葉に眉をぴくりとさした。それでも黙ってグラスを干した。
「どうです。」と恒雄は孝太郎にもそれをすすめた。
「今御飯を召し上ったばかりなのに……。」と富子がはじめて口を開いた。
孝太郎は苦しくなってきた。
「妙にむし暑いような晩ですね。」と彼は云って、そっと座を立った。その時ふと富子の顔を見たら、冷い瞳の光りが彼の胸を射た。
孝太郎は障子を開けて縁側に出た。冷たい空気が彼の熱した額を流れた。それは静かな空虚な夜であった。暗い物の隅々が妙に透《すか》し見られた。彼は張りつめたままの気分で長く其処に立ちつくしていた。
その時、がらがらっと物の投り出されるような音がした。孝太郎は駭然として茶の間に走り入った。
颶風のようなものが突然彼の頭に渦巻き去った。彼は息を止めて其処につっ立ってしまった。そして次第にはっきりと室の中の有様が彼の眼に映ってきた。
葡萄酒の壜とグラス盆とが其処に投げ出されていた。だくだくと壜からこぼれた葡萄酒は赤い血のように静に畳の上を滑って流れていた。富子はその前に蒼白な顔をして、それでもじっと坐ったまま室の片隅を見つめている。その上に充血した眼を据えて石のように堅く恒雄はつっ立っている。彼等の間には今にも張り切れそうな緊張した沈黙と反撥とがあった。そして何かがじりじりと圧《お》し潰すように迫ってくるがようであった。
「どうしたんです!」と孝太郎は叫んだ。
その声は急に何かを煽るように響いた。恒雄は肩のあたりをぴくと震わした。孝太郎は自ら自分の声に懼然とした。そして殆んど本能的にこう云った。
「外に出ましょう。」
恒雄は二三度頭を強く横に振った。それからしかとした調子で孝太郎に応じた。
「外に出ましょう。」
二人はそのまま表に出た。その際孝太郎はふとふり返って富子の顔を見た。彼女はその堅く引きしめた顔の眉一つ動かさなかった。そして何かを挑むような高慢な眼が、動物的な冷たい光りに輝いていた。
外に出ると彼等の緊張し興奮した精神はそのままに堅く凝結し
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