議一はふいに立ち上って、正夫をじっと見つめ、それからまた腰を下す。
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 議一――それは君の今の姿勢だろう。そんなことを聞いてるんじゃない。僕たちが聞いてるのは、君の心の在りかた、精神の持ちかたのことだ。
 正夫――僕は、体の姿勢と精神の在りかたとを、別物だと考えてはいない。もう暫く、僕をこのまま放っといてくれ。
 議一――宜しい、君がそう言うなら、干渉はしない。然し……。
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沈黙。
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 議一――さっき、僕たちは少し言い過ぎだったかも知れない。僕たちは君のことをやはり仲間だと思っているんだ。日本人の悪い癖で、些細なことからすぐに、右の陣営だの左の陣営だの、敵だの味方だのと、符牒を貼りたがる、そういう通弊に陥りたくはないのだ。然しまた、甘っぽい感傷や未練のために、思い違いをしたくもないのだ。
 ――例えば、映画を観る若い娘の話を持ち出してもいい。Nというスター俳優のファンだとする。右側の席にいた娘は、Nはこちらを向くといつも私の方を見ていたと、嬉しそうに言う。左側の席にいた娘も、Nはこちらを向くといつも私の方を見ていたと、嬉しそうに言う。中央の席にいた娘も、やはり同じことを言う。一階の席でも二階の席でも、同じことだ。映画とはそうしたもので、Nの眼は凡ての人を見てるので、つまり誰をも見ていないことになる。そういう画面の俳優のようであってほしくないと、君に僕たちは希望する。ここに眼のことを言うのは比喩であって、実は顔のことだ。君の顔がどっちに向いてるか、それが問題なんだ。
 ――顔を地面に向け、眼を足元に注ぐ、それは君の自由で僕たちはとやかく言いたくない。体の姿勢と精神の在りかたとは別物でないと君は言うが、それも一応は承認しておこう。然し、そういう体の姿勢、そういう精神の在りかたが、君がやはり僕たちの仲間だとすると、実は心配になるんだ。それは取りも直さず、病気か衰弱の兆候だからね。もう暫くこうしていたいとは、いったい何事だ。自滅を待つばかりじゃないか。
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議一は激しく卓を叩く。正夫はちらと顔を挙げるが、また顔を伏せて、静かに言う。
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 正夫――僕は無理に死のうとは思わないし、それと同じ程度に、無理に生きようとも思わない。
 議一――ばかな。万事無抵抗主義で、万事成り行きに任せるというのか。そんなら君の、あの積極的な、反暴力思想、反権力思想は、どこへ行ったんだ。病気か衰弱か知らないが、へんに投げやりなところが君には見える。どうしてそうなったんだ。何が君をそうさせたんだ。投げやりの気持ちは、自暴自棄よりも一層悪い。自暴自棄には少くとも、何物かに対する一種の抵抗がある。投げやりには何もない。頽廃ほどの気慨さえない。君のうちにはなにか、深淵みたいなもの、空洞みたいなものがある。
 ――それで分ったよ。君が文化会議に殆んど出て来なくなった理由も、その他の会合にも殆んど出席しなくなった理由も、よく分った。君はどこにも殆んど顔出ししなくなったばかりか、誰に逢っても、ただにやりと気味悪く頬笑むだけで、殆んど話らしい話もしないというじゃないか。勿論、口を利きたくない時は利かなくてもいいが、君の様子はちっと変梃だと、皆が言っている。然しもう、とやかく言うのは止そう。まあせいぜい、顔を地面に向けて、僕たちに背を向けるのもよかろう。眼を足元に注いで、青空を見ないのもよかろう。そして君のうちにあるその深淵に、その空洞に、君自身すっぽりと呑み込まれるのもよかろう。
 ――おい、正夫君、僕たちにばかり饒舌らせないで、何とか言ってみたらどうだい。そのくせ、自分では退屈してるじゃないか。いったい、君は一日中何をしてるんだ。退屈ばかりしてるのか。時間をどんな風につぶしてるんだ。何とか言ってみないか。
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議一は拳固でやたらに卓を叩きつける。正夫はじっと頬杖をついたままでいる。議一はなお卓を叩き続ける。
間。
議一の腕を、横合から一本の手が押え止める。そして手の主は、すっくと立ち上る。胴体が短く、足が長く、極端に痩せ細った男で、体にきっちり合った服を着てるので、火箸のようにひょろ長く見える。彼は突っ立ったまま、室内を睥睨するように見廻し、正夫に眼を止めて、右手を差し伸べ、更に人差指を一本差し伸べて、正夫を指し示す。
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 時彦――俺は時彦という者だが、この人をよく知っている。煩いから騒ぐのは止しなさい。この人は決して退屈なんかしていない。退屈したことなんか決してない。ただ、俺を軽蔑してるだけだ。言い換えれば、俺を無視してるだけだ。
 ――この人は恐ろしく懶け者だ。ただそれだけだ。だから、懶け者の癖として、決して退屈
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