樹を愛する心
豊島与志雄
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)水木《みずき》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一本|水木《みずき》
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庭の中に、桃の木があった。径五寸ばかりの古木で、植木屋が下枝を払ってしまったので、曲りくねった風雅な一本の幹だけが、空間に肌をさらしていた。だが、その上方、若枝の成長はすばらしかった。強く、盛んに、爆発めいた勢で、枝葉が四方へ伸びた。沢山の実がなった。その精力と重みとは、それを支える古い幹には、堪え難そうに思われた。
危い! と私は思った。
――少し刈りこんであげようか?
桃の木はその重い頭を、平然と振っている。強い風には急に、弱い風にはゆるやかに、頭を振っている。
――刈りこんであげよう。
桃の木はやはり頭を振っている。
それを、躑躅や山吹や薔薇や荻などは、不安そうに見上げていた。殊に金魚や水蓮などは、一種の恐怖を以て見上げていた。
だが、桃の木はやはり平然と頭を振っていた。
その頭の茂みの中には、金色の蝿が飛んでいる。蜜蜂が羽音を立てている。朝は小鳥が戯れ、夕は蝶が休らっている。
家族揃って夏の旅に出かける時、私はいつも留守の者に云い残した。
――あの桃の木は危いから、気をつけておいてくれ。
旅から帰ってくると、桃の木は昂然と頭をもたげていた。――桃の葉の汁はアセモの薬だというので、子供のある近所の人たちが、その枝葉を貰いに来て、程よく刈りこまれていた。実にはよく虫がつくので、留守の者が順々にもいで食べていた。残ってる幾つかの大きな実、それを食べるのが、帰宅した私たちの第一の楽しみだった。街で売ってる水蜜桃ほど甘味はないが、それよりも遙にすぐれた新鮮さと甘酸味とがあった。
枝葉の茂みが刈り透かされ、実がもぎ取られて、すっきりした桃の木は、やがて庭半分にその葉をまき散らした。低い樹木や金魚や水蓮は、晩秋の日ざしを仰ぎながら、安心したように桃の木を眺めた。
だが、冬を越して、春になり夏になると、挑の木はやはり凡てのものの不安の種となった。そして自らは、やはり平然と頭を振っていた。その古木に、何と驚異的な精力ぞ!
それが一昨年の秋、少し早めに葉を散らした。そして昨年の春、二三の小枝を出したきりで、その小枝も、やがて萎縮して淋しい裸形の姿になってしまった。
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