も引かずに、明るい室がある。
昼間は人家が往来の方を眺めているが、夜になると、往来が人家の方を覗き込む、と或る人は書いているが、そういうわけばかりでなく、私はへんに明るい室に気を惹かれた。そして眺めていると、その窓の一つに、ぬーっと――そう云える早さで、或は遅さで――人の頭が出てき、顔が出てき、首、肩、胸……タオルの寝間着姿の半身が現われた。まだ若いらしいが、長髪は乱れ、頬の肉は落ち、寝間着の胸ははだけ、そして鋭い眼付で、じっと窓硝子を見つめ、暫くたつと、急に下に引込んでしまった。それから、またぬっと、頭、顔、肩、半身……そして暫く見つめて、急に引込む。
それが何度か繰返された。宛も、徐々に身を起して、窓に何かを見つめ、恐れて急に屈み込む、そういう動作が繰返されてるかのようだった。私はそこに佇んで、それを眺めていた。我を忘れていた。するうちに、もう窓には人影がささなくなり、白い天井の室の中の灯火のみが徒らに明るく、何事も起らず、それが却って不気味な感じを与え、私は寒々とした気持で我に返って、急いで歩きだした。
あの男は何をしていたのであろう? それは知る由もなかったが、或る晩私は、自分の姿を室の硝子戸に度々見出していることに気付いた。そしてその姿は、鏡の面に明瞭に映るのとちがって、薄くぼやけながら、明暗の差が多く立体的で、真暗な中に宙に浮いている。或る距離まで近守って見ると、それはもう自分の姿ではなく、一の幻影……幻覚なのである。
それに囚われてなるものか! 或る精神病院の入院患者は、窓硝子に映る自分の姿を恐れ初め、やがて鏡を恐れ、水面を恐れ、闇を恐れ、そして白昼も自分の姿がついて廻った。或る有名な文学者は、自分の椅子に腰かけてる自分自身を見、飲もうとする水を先に飲み干してしまう自分自身の姿を見、摘もうとする花を先に折取ってしまう自分自身の姿を見た。
私は、自分自身の姿に馴れようとして、硝子戸に度々それを呼び出してみた。それでも足りずに、病院のあの男を真似て、起き上ったり屈みこんだりして、自分自身の姿を現滅さしてみた。あの男も実際そういうことをしていたのかどうか、それは私にはやはり知る由もない。
机に向っている時、ふと、もう忘れはてたつもりでいても、夜更けなど、硝子戸の自分の姿に気が惹かれることがある。然しそこには既に、大きな守宮が食いあきた腹をこちらに
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