失策記
豊島与志雄
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【テキスト中に現れる記号について】
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(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)顳※[#「需+頁」、第3水準1−94−6]
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一
外出間際の来客は、気の置けない懇意な人で、一緒に外を歩きながら話の出来る、そういうのが最もよい。ところが、初対面の、どういう用件か人柄かも分らず、ふだんなら面会を断るかも知れないようなのを、外出間際だからちょっと……という気持で、座敷へ通したりなんかすることがあるから、奇妙だ。
或る時、そういう場合のそういう来客があって、座敷へ行ってみると、四十近い年配の、洋服を着た紳士で、室の入口に端坐している。私は席に就いて、一通りの挨拶を済ましたのだが、さて、その紳士、四角い卓子の角のところににじり寄ったきりで、幾ら招じても座布団を敷こうとせず、洋服の膝もくずさず、茶にも煙草にも手を出さず、謂わば鞠躬如として眼を伏せている。そして、「御多忙のところを……御閑静なお住居で……お天気も……先生には……。」などという言葉で、而もその「先生」という語調が、如何にも他処行きの聞き馴れない響きを帯びている。
そんなのは、一番苦手だ。苦手は敬遠するに限るので、私はだんだん席をずらして、卓子の角の方へ退いてゆく。話の間に、何度か、「どうぞこちらへ。」と招じたのだが、相手が動こうとしないので、こちらから動いてしまった形だ。こうなると、四角な卓子の対角線を通じての対坐だから、人間的な話が出来ようわけはない。――どうも日本座敷はあがきが取れない、せめて、円い卓子を置いた方が便利だ……とそんなことを、私は四角な卓子の対角線の一方で考えながら、黙りこんでしまい、そして対角線の先端に坐っているのは、すっかり人間味を失った単なる儀礼の案山子にすぎなくなった。
こうなったらもうおしまいで、こちらは不愉快に黙りこむの一手だし、先方は更に鞠躬如と、雨だの風だの電車だのバスだの――そして漸く、色紙短冊の御揮毫をときた。
――そうしたことで、私はすっかり気を腐らしてしまった。
気は腐ったが、これも用件なので、伯父の家を訪ねていった。
ひどく謹厳な老人で、酔えば仕舞の一手も踊ろうという粋人だが、ふだんは茶の間の長火鉢の前でも膝をくずさず、十徳姿で短い白髯をなでている。子供もなく、金婚式にま近い老妻と二人きりで、若い時からの道楽の書道が役に立って、近所の娘子供たちに書道の稽古を授けている。謡曲に造詣深いところから、絹地に金泥で扇面を描き、その扇面に得意の隷書体で、「謡曲十五徳――不行知名所、在旅得知者……。」などと書きちらして怡んでいる。――その謡曲十五徳の額面を一つ、私は知人の求めによって、揮毫依頼に行ったのである。
伯母が出て来て、私を座敷に案内し、茶菓を出してくれ、何かと消息を尋ねてくれる。この伯母は至ってやさしくにこやかなのだが、やがて、襖の彼方からエヘンと一つ咳払いして、伯父が姿を現わすと、私も固くならざるを得ない。朱塗りの長卓の前に伯父は、肩をおとし腹に力をいれて正坐しているのだが、私にはその長卓がどうも低すぎる。眼をそらすと、縁側に小さい万年青の鉢が置いてある。私は立って行ってその万年青をほめ、戻ってくると、どうしたことか、いきなり胡坐をかいて云った、「伯父さん、どうぞお楽に!」「ええまあわたしは……。」とかなんとか伯父が云ってるのも知らん顔で、煙草をふかしたのである。
――そのことが、あとで笑い話になり、他家に行ってそこの主人にどうぞお楽に――でもあるまいと、私はすっかり無作法者にされてしまった。
二
或る時私は、つまらないことから多額の負債を荷った。そのうち、最も悪質なのが三千円ほどあって、利子が月八分にも当るのである。これだけでも、利子ばかりで月に二百四十円になる。あまりばかばかしくて、行末のことも案じられ、もうこの上は、庭の木の枝にぶら下るか、顳※[#「需+頁」、第3水準1−94−6]にずどんと一発やるか、或は両国橋あたりから身を投げるかするより外はあるまいと、さんざん思い悩んで、仕事もせずのほほんとしていた。
それを見兼てか、親切な或る先輩が、その三千円だけでも拵えてやろうと云ってくれた。而も事は急で、明日にも自殺となりかねない雲行である。とにかく三日間待て、という約束になった。
その三日間を、私は一刻千秋の思いで待ち暮したのだが、期限がくると、先輩はにこにこして私の家へやって来た。――「みごとに失敗したよ。彼奴、金はあり余るほど持っているんだが、事情を話すと、こういう返事なんだ、月八分もの高利の金を借りるような人には、危なくて、御用立は出来ない。
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