驚いたが、それはいつしか沙汰やみとなった。
 それ以外におれは何にも知らない。然しそれでよいのだ。おれのことについては、この貧しい八畳の室とだいたいの生活とを、彼女は知っているし、それだけでよいではないか。
「僕はこの通りの男だし、あらためて、打明けることなんかないつもりだが、質問には応じよう。なんでも聞いていいよ。」
 まずい言い方だった。おれは自分ながら眉をひそめた。ところが彼女も同じようなことを言った。
「あたしも、この通りの女よ。でも、質問には応じますから、なんでも聞いて下すっていいわ。」
 ひどく白々しい空気になってしまった。いけない。いま、彼女を押し倒して、押えつけて、ぶん殴るか、暴行するか……抵抗してくれればいいが……いや、たぶん、なま温い泥沼に一緒に転げこむばかりだろう。
「なんにも聞いて下さらないのね。ほんとの愛情がないんだわ。やっぱり、あたし間違ってた。」
 突然、彼女は卓上に突っ伏し、肩を震わして泣きだした。泣きながら言うのである。
「あたしね、たとえ一月でも二月でもいいから、あなたと一緒に、二人っきりで暮してみたかった。そしたら、もう死んでもいいと思っていた。でも、もう遅いわ。いいえ、もうだめよ。あたしの思う通りにさしてね。決心したんだもの。なんにも言わないでね。ただ一生、一生、あなたのことは忘れないわ。」
「僕だって……。」
 あとの言葉が出なかった。どう言ったところで、嘘になるにきまってる感じだ。なにか、襦袢でもぬがせられたようで、背筋が寒かった。わーっと大声で喚きたい。喚きながら駆け廻りたい。それをばか、ばか、と自分で叱りながら、おれは酒を飲んだ。
「あたしのこと、あなたも、一生忘れないと、ね、誓って。」
「そのことなら、誓うよ。」
「きっとね。」
「うむ、誓う。」
 これは、嘘ではない。だが、おれはふいに腹が立った。彼女からの恩義を、今の場合に感じたからだ。彼女はおれの面倒をいろいろみてくれた。帽子が古ぼけてるといっては、新しいのを買ってくれた。靴や、靴下、麻のハンカチ、ネクタイ……。箪笥の底から浴衣地の反物を引き出して、寝間着に仕立ててくれた。彼女はおれより一つか二つ年上だろうか、まるで姉のようにおれの身なりに気を配ってくれた。おれの方からは、ただ閨の歓楽を報いただけだが、この取引では、むしろ彼女の方が得をした筈だ。おれの身辺の世話をやくことに、彼女は大きな自己満足を感じていたからだ。男めかけ、そんな気持ちは露ほどもなかった。然し、然し、実質的にはおれの方が得をした。この感じ、つまり恩義を受けたということは、拭い消しようがない。彼女が生きてる限り、そしておれが生きてる限り、それは消滅しない。今ここで、彼女を殺せるものなら……。
 またまた、わーっと喚きたい、喚きながら駆け廻りたい……。
 彼女はまだ泣いていた。見ていると不思議なほど涙が流れ出る。ハンカチはぐしょ濡れだ。
「ごめんなさい。あたしわるかったわ。でも、あなたを誘惑するつもりではなかった。ほんとに好きだったの。この、好きだって気持を知ったこと、感謝してるわ。ね、分って下さるでしょう。」
 ちきしょう。おれとしたことが、ふっと涙ぐんできた。もうやぶれかぶれに酒だ。そして喚いてやれ。わーっ、わーっ、と喚いてやれ。そうだ、あの時、あの女も喚いた。銃声の後に、たしかにその声が聞えた。
 あの時、どうしてあの女は、にっこり笑っておれを迎えたのかしら。たしかに上流の婦人だった。おれに御馳走をして酒を飲ましてくれた。おれはその好意に乗じた。その夜、おれは彼女の肉体を犯した。殆んど抵抗らしい抵抗はなく、ただ全然消極的に過ぎなかった。翌朝、おれは部下の兵に拳銃を持たして、女の部室に闖入させた。銃声の後に、いや同時に、わーっと喚き声がした。たしかに声がした。おれは駆け出した。残虐な場合にもいろいろ立ち合ったがあの時だけは、髪が総毛立った。
 あの朝、おれはなぜ、あの女の足元にひれ伏して、謝罪しなかったのか。或は、あの女に背中から刺されなかったのか。それだけの勇気がなかったわけではない。ただ、あの女の幸福ということを別な方面から考えただけだ。あの当時、おれは忌わしい病気にかかっていたのだ。おれが考えたあの女の幸福、それはどこへ行ってしまったか。わーっという喚き声で、一瞬にして消し飛んでしまった。
 底知れぬ深淵を覗き込む気持ちだ。
 深淵は埋めろ、埋めろ。埋めて平らにするがいい。
「何を考えていらっしゃるの。どうなすったの。」
 彼女の眼ばかり大きく、すっかり蒼ざめている。
 わーっと喚いて、おれは彼女に飛びつき、その首にかじりついた。だが転がって、もう起き上れなかった。

 その夜遅く、或は明け方近かったかも知れないが、おれは起き上って、ひそかに雨戸を開
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