んを電車に乗せ、おれは他の電車で帰途についた。
途中、電車の乗換場近くで、おれは鮨の折箱を一つ手に下げた。
おれの予感はたいてい当る。果して、木村栄子が来ていた。
「さきほどから、おいでになっていますよ。」
下宿のおばさんにそう言われて、おれはぐっと胎を据えた。
嬉しくて浮きたったからではない。当惑したからでもない。大事なお話があるからあなたのところに行くと、わざわざ前以て断られたその話の内容も、だいたい想像はついている。ただ、いよいよとなって、甚だ不吉な陰が心にさすのである。
栄子は電熱器で湯をわかし、食卓に酒器を並べて、独りで飲んでいた。一升壜がそばにあった。
「お帰んなさい。」
静かな落着いた挨拶で頬笑んでいる。
おれは鮨の折箱を差出した。
「あすこの家のだよ。遅くなってすまなかった。」
「あら、ずいぶん久しぶりだわ。」
彼女は珍らしそうに鮨折を開けた。
因縁の鮨なのだ。電車の乗換場近くのその鮨屋のはうまいと、ひとから聞いて、おれは時々、社の帰りに立ち寄った。そこに、栄子もよく来ていた。アップに取りあげた髪の襟足が美しく、背の繰越しの深いお召の着物を裾短かに着て、顔立ちがすっきりと澄んでいた。その鮨屋には女客も多かったが、ちょっと身元の不明な彼女は目立った。お上さんと映画の話を、亭主と競馬の話を、手短かにしてることもあった。それよりも、おれの眼を惹いたのは、彼女の鮨皿のそばの土瓶だった。土瓶から茶碗についだのを飲む彼女の口付きでは、お茶とは違っていた。或る時、おれは彼女の前で、ウイスキーのポケット瓶を取り出して飲んだ。それが囮だ。彼女は眼で笑い、お上さんに頼んで、おれにも土瓶の酒を出してくれるようになった。学校の近くの喫茶店でのおれよりは、遙かに愛相がいい。もっとも、彼女自身の腹がいたむわけではなかった。
其後、銀座裏のカフェーでおれは彼女に逢った。この家は、昼間はコーヒー専門で、夜になるとバーに早変りする。その昼間だけの女給を彼女は気儘にやってるのである。それと分っていたら、鮨屋で囮の瓶など使う必要はなかったのだ。
「あたし、あすこのお鮨屋にはすっかり御無沙汰しちゃった。」
「どうして?」
それには答えず、おれの方をじっと見た。
「あなたは?」
「僕も行かない。今日久しぶりだ。」
顔見合せて、しぜんに、二人とも頬笑んだ。おれは彼女に甘えたい気持ちになってゆき、それが自分でも楽しかったが、どういうものか、或る冷い障壁が彼女のうちに感ぜられた。それならそれでもよい、とおれは思った。二人の肉体が愛し合ってから、二人ともあの鮨屋にはあまり行かなくなった。そのことに何の意味があるものか。
「もうだいぶ召し上ってるようね。」
「うむ。ウイスキーと、焼酎だ。やはり日本酒がいちばんいい。」
彼女は銚子を取って、器用な手付きで酌をしたが、ふいに、おれの顔をじっと見つめた。
「あなたは、今日はなんだか冷いわね。」
忘れていた。おれは彼女の肩を抱いて、キスしてやった。だが、彼女の方も冷淡のようだ。おれは苛立たしい思いだった。昼間の虚脱感が戻ってくる。そして今、おれには性慾がないのだ。あなたの情熱がうれしい、と囁いて、彼女はしばしば蛇のようにおれの体をしめあげたが、然し、獣ではあるまいし、常住不断に性慾を、いや妥協して、情熱を持ち続けられるものではあるまい。おれが冷淡になると、彼女は時折、愛情が少いと訴えたものだが、愛情なんていったい何物だ。
「ねーえ、」とそこに彼女はいやに力を入れて言う。「今日はいろいろなこと伺いたいの。あなたの昔のことや、今のお気持ち。洗いざらい打ち明けて下さらない。その上で、あたし、決心したいの。」
然し、今更なにを打明けることがあろう。おれだって、彼女のことをよく知ってはいないのだ。
彼女はあの鮨屋から程遠からぬアパートに住んでいる。八畳と六畳と炊事場との贅沢な家だ。窓や戸の構えは洋風だが、中は畳敷きで床の間もある。箪笥を二棹おきならべ、低い用箪笥の上には神棚の金具が光っており、ラジオの横には二挺の三味線、それから長火鉢や卓子、花が活けてあることもある。五日おきぐらいに、おばさんとかいう人が手伝いに来てくれるそうだが、凡そ女一人の住居としては清浄に整いすぎている。そして彼女はカフェーの昼間勤め、晩画は[#「晩画は」はママ]よく観るらしいし、競馬が始まればしばしば出かける。金はあるのだろうが、旦那という男はあるのやらないのやら。たぶん芸者上りかなんかだろうが、生活にしろ経歴にしろ、訳の分らぬ女なのだ。嘗て洋装をしてたことがない。おかしいのは、おれが出版社の編輯員だということを知って、自叙伝風の小説を書いてみたいから出来たら出版してほしいと言い出したことがある。大変なことになったとおれは
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