。非常時に於ても、人間には直接当面の必要以外に、そしてそれと同時に、贅沢なる欲望があると同様、社会には、制度変革を必要とする以外に、そしてそれと同時に、前進的文化の欲求がある。
 学芸のひいては文化の自由なる進歩発達を擁護せんとする「学芸自由同盟」に、その行動の方向があるとすれば、それはただ前進であろうと、私は考える。随ってそれは、あらゆる意味の後退に反抗するであろう。ナチスの焚書をこの同盟の母体は後退的なものと見、滝川教授罷免問題をこの同盟の準備委員会は後退的なものと見たと、私は解釈する。或る人々が揶揄してるソヴィエットに対する問題は、事前に属する事柄だけれども、現在のその強権主義が前進的であるか後退的であるかの見透しがついてから、それに対する同盟の態度も決ることだろうと、私は考える。
 前進的自由主義の動きが、平野の中に於ける河の流れのように静穏である限りは、恐らく「学芸自由同盟」などというものは起らなかったであろう。然るにかかる同盟が創立された所以は、自由主義の動きが何物かに堰き止められたことを証明する。そしてこの堰は、恐らくは後退的ファシズムであろうと、私は考える。
 ファシズムの本体たる権力的社会統制は、その主体が青年期もしくは壮年期にある場合に於てのみ、前進的であって、力と生命と意義とを持つ。然しその主体が、老衰期にはいり、没落期に近づくにつれて、動脈硬化と生命硬化とを来し、その権力的統制は、頑迷な老人に見らるるように焦慮と剛直とが不思議に混和した性質を帯び、そして後退的なファッショ的傾向を将来する。そういうファシズムだと私は日本の現在のそれを見ている。ファッショにも種々あることを考える必要がある。まして、ファシズムとしての政治形態は、その本来の任務を終えた後にも、社会的生命を失った骸骨的権力を残す危険がある。
「学芸自由同盟」は、凡て存在するものは合理的であるというような「自然」の把握の仕方を、恐らくはしないであろうと、私は考える。自由な完き生活の予想から直接把握される「自然」、そういう自然を考えるだろう。そしてこういう「自然」の把握の仕方は、あらゆる学問や芸術に生命を与える為のである。この意味に於て、同盟の仕事と研究或は創作とがしっくり統一出来ないらしく考える人々に対しては、再考を煩わしたいのである。生きることは、意欲を持つことであり、仕事を生かすこ
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