というものを観念的に考えているのではないかと思われる。
 自由というものが、生活から引離されて観念的にしか存在しなくなる時、云いかえれば、自由の一面が生活から切取られる時、生活は不具になる。この生活の不具の苦痛を、自由主義は最も強く感ずる。それは、観念的な自由が、政治的に或は経済的に如何に各人に分与されるかの問題ではなく、生活それ自体が自由の面を如何ほど保有してるかの問題である。自由主義のあらゆる運動の強弱は、生活の自由の面の広狭に正比例する。
「学芸自由同盟」の創立も、恐らくは、現時の吾々の生活に自由の面が如何に縮小されてるか、そしてそのために生活が如何に不具になされ歪曲されてるか、それを苦痛として感ずるところから起ったものであると、私は考える。随ってその態度の基調は、不具ならざる生活――自由を有する生活――の防衛であろう。そしてかかる防衛は、完き生活のためが、唯一の「ため」であって、他の特定なる政治的な或は社会的な或は経済的な「ため」ではないが故に、通常は、思想的には批判者の地位に立つものであり、実践的には後衛の地位に立つものだと思われる。そこに、この同盟の行動の自由性と各種前衛分子をも包括し得る可能性とがある。
      *
 自由主義の動きは、例えば河の流れに似ている。何物も遮るもののない時には、平静に流れて波をも立てない。然し一度、その流れが堰止められ、その勢いが蓄積される時には、如何なる堤防をも乗り越し破壊する。そしてこの危機に際しては、自由主義はもはや自由主義でなくなり、一躍反対物へ転向することさえある。
「学芸自由同盟」も恐らく、自由主義とほぼ同じ運命を持ってるものであろうと、私は考える。場合によっては、殆んど存在の意義が無くなるかも知れない。或は何等かの堤防に直面して、特定の偏向と行動とを強いらるることにより、四分五裂するかも知れないし、又は創立主旨とは異ったものへ転向するかも知れない。
 然しそれだからといって、この同盟を中間の無用な存在だとは断言出来ない。中間は静止を意味するものではない。人間社会にあっては、中間も常に動いてゆく。そしてこの動きは、自由主義的基調によって成さるる場合には、後退を意味するものではなく、前進を意味する。前進は新らしい地平線の発見を予想させる。そして新らしい地平線の発見を意図する前進こそ、あらゆる文化運動の使命である
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