の方から言わなかったの。」
「言えると思って?」
「言えるさ。」
「愛のことじゃない……結婚のことよ。わたし貧乏だったわ。」
「貧乏でも……。」
 言いかけて、私は口を噤んだ。なにか寒々としたものに突き当ったのだ。
「こんな話、もうやめましょう。わたし、今日は酔いたいのよ。」
 私には、へんに酔えないものがあった。そしてその方へ、気持ちが落ちこんでいった。――そうだ、貧乏な者には、結婚のことなど言い出せないのかも知れない。貧乏な私が、今、彼女へ結婚のことを言い出したのも、長い躊躇の後だ。それならば、恋愛は……。貧乏な庶民には、結婚をよそにした恋愛など、猶更無理なことかも知れない。私にしても、恋愛よりは結婚のことばかり考えていたのだ。
 なにかしんしんとした思いに沈んでいると、彼女は私の肩をとんと突いた。
「面白くしましょうよ。生きてる間は……。」
 それでも、彼女の顔はどこか硬ばってるようだった。
「空襲の頃の方が面白かったわ。」
 彼女は立ち上って、小箪笥の上方の小さな抽出の奥を探り、紫色の壜を取り出してきた。
「これ、なんだか分って?」
 私は壜を受け取り、栓を開けようとした。

前へ 次へ
全25ページ中22ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング