女は拒まなかった。妙な工合だった。昔――そうだ、もう昔の感じだが――私たちはよく手を握り合ったものだ。彼女の家のミルクホールの片隅で、縁日の夜の暗がりで、人目をさけて手を握り合った。その昔のことが、違った色合で蘇ってきたのだ。私は焦燥に駆らるることがあった。彼女は執拗に眼を伏せていた。
戦地で私が育くんできた淡い恋情は、現実的なものに変質していった。私は多少無理しても彼女の許へ通うようになった。彼女の方から私に勘定を請求はしなかった。――店の常連には、もう年配の富裕な人が多いようだった。
そのうち、私の事情に変化が起った。私は応召前、ある医療機械店に勤めていたのだが、帰宅して[#「帰宅して」は底本では「帰宅した」]みると、その店は罹災していて、まだなかなか復興の見通しはつかないらしかった。母と妹は戦時中、他家の手伝いや手内職でどうにか過してきて、終戦後からは、ささやかな闇物資の仲次ぎをやっていた。私は就職口も思わしいものがないところから、当分のうち、その内緒の家業を手伝うことにした。思わぬ利得があることもあれば、全然だめなこともあった。――そういうところへ、小樽の伯父から頻繁に速達便が来るようになった。
――私の思わしい就職口もなかなか見つからないだろうということ。妹ももう婚期すぎと言ってよい年頃だから、その嫁入り仕度のことも考えておかねばなるまいということ。東京は衣食住とも不自由らしく、殊に、知人の罹災者一家を二階に同居さしてる由だから、ゆっくり休らう余裕もあるまいということ。伯父のところへ来る意志は私にないかということ。今はいささか暇ではあるが、将来有望な海産物の加工場に、しっかりした人物が入用であるということ。復員者であることや年頃など、私に丁度ふさわしい地位であるということ。其他いろいろ。
次々にやってくる伯父の手紙は、督促状みたいな調子になっていった。私は曖昧な返事を出しておいた。母からも別に、曖昧な手紙がいったらしい。伯父はやがて、年内に確実な返事がほしいと、強硬な期限づきで言ってきた。年内に返事がなければ、他の人を雇わなければならないとのことだった。なにか切迫した事情があるらしいのだ。――私は母や妹の意向も探ってみたが、ただなんとなく気懸りらしく淋しそうなだけで、一向に要領を得なかった。
そういう事情が、私を更に弓子へ執着さしたのだ。私は彼女
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