とでは、一種の妾奉公をしてるとの影口もあった。空襲が激しくなって、その家は焼けた。老人が焼死し、彼女も少し負傷した。そして彼女は自宅に戻ってきたが、自宅でまた罹災した。其後、家の人たちは知人のところに同居しているが、彼女は以前の奉公先からの多額な手当金をもとでに、或る家の階下を借りて酒場を初めた。大体そのような話なのである。
 私はまだ宵の口に、その酒場へ行ってみた。谷間みたいな低い土地の、焼け残りの一廓で、古びた小さな商家が並んでいる。おでん屋めいた飲み屋がいくつもある。その中の一軒だ。ただ彼女の酒場は、入口が軒並からちょっと引っ込んでいて、その両側に、鉢植えの樹木がこんもりと茂みを拵えている。それだけが特長で、店内は、スタンドの前に椅子を並べ、ちょっとした摘み物にありふれた酒類ばかり。場馴れのした弓子の挙措が、水際立って目につくような、そういうけちな酒場だ。
 私が度胸をさだめてはいってゆくと、彼女はすぐに私を見分けた。切れの長い眼を大きく見開いて、驚きとも喜びともつかぬ声を立てた。私が片手を差しだすと、彼女はそれを両手で握りしめた。妙に冷い手だった。彼女は店の方をおばさんに頼んで、スタンドの奥の自室に私を招じた。小箪笥や戸棚や机や火鉢や鏡台などがこじんまりと並んでるその室で、私はなんだか落着かなかった。五年ぶりに見る彼女は、もうミルクホールの娘ではなくて、垢ぬけし世馴れのした年増女に見えた。ただ頬の肉がへんに薄くなった感じで艶がなく、左の耳朶から首筋へかけて火傷の痕があった。彼女は酒と煙草とを私にすすめ、自分でも両方に手を出した。そしてしきりに私の話だけを聞きたがり、自分の方のことは殆んど話さなかった。それでも現在のことだけは打ち明けた。彼女は借家主のおばさんと酒場を一緒にやり、資本は彼女が出していた。おばさん夫婦は二階の六畳一間に寝起きし、夫は或る公共営団に勤めてるらしかった。室の様子では、彼女に旦那とか情人めいた男はなさそうだった。――それだけの収穫で、私は程よく辞し去った。
 それから、私は財布が許す限りしばしば、彼女のところへ飲みに行くようになった。酔っぱらった揚句、一度、彼女の唇を求めたことがある。彼女は笑いながら、ほんのちょっとの間それを私に許した。全く受動的な無反応な冷たい唇だった。その代り、私は彼女の手をじっと握りしめることが多かった。それを彼
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