至って落付払って、慴えてる様子などは少しもなかった。――こうした犯罪はこのように冷静に行われることが多い。
 坪井は長崎から上海に渡った。

 それから七年たって、島村陽一は、突然、坪井宏の訪問を受けた。おしげの生前の生活の有様をききにだしぬけに訪れてきたことのあるその不思議な男のことを、そして真偽不明な犯罪の告白を上海から書いてよこしたその男のことを、島村はもう忘れていた。がとにかく逢ってみると、骨格の逞ましい眉宇の[#「眉宇の」は底本では「眉字の」]精悍な四十年配の男だった。彼は装わない磊落な親しみを示した。その眼が変に人の心を惹くものを持っていて、梟の眼付を[#「眼付を」は底本では「着付を」]思わせた。島村は思いだした。
「ああ、君でしたか……。」
「お忘れでしたか、はははは。」
 力強いが然し感情の空疎な笑いかただった。そして彼はなつかしそうに島村の顔を眺めるのだった。その無遠慮なほど卒直な視線に、島村はちょっと眼を合せかねる心地がした。
「こちらに帰ってきて、急にお逢いしたくなったものですから、ぶしつけに伺ったのですが、皆さんお変りもありませんか。」
「ええ、まあ……。」
 考えてみると、島村は妻が病死していたし、思想感情にもだいぶ変化を来していた。然し坪井の方が、あの当時とはよほど変っているようだった……というよりも、内的ないろんなものが力強く生長しているようだった。彼は饒舌ではなかったが、ぽつりぽつりと短い言葉でいろんなことを話した。――上海からの手紙のことは真実で、あの時持ち逃げした金の残りで、一寸公言をはばかる非合法な仕事をやって、まあ相当の財産が出来たので、東京へ舞戻ったのだった。これから何をするかは、まだ考慮中だった。あの時上海へ行って内地からの新聞を注意していたが、依田賢造が事件をあのままに葬ったのは、賢明な処置と云うべきだそうだった。然しあのような男にはもう用はないのだった。あの当時はいろいろばかなことを考えたもので、それも「人工に対する自然の反逆の癲癇的発作」のせいだったらしい。――そして彼はその「発作」についてくわしく説明をして、只今では、それを利用する方法を知ってると云うのだった。
「今でも起るんですか。」
「どうかすると、起りそうです。」
 島村は安らかな微笑を浮べた。そしてそんな話から、島村も彼の梟の眼付に親しみを覚えて、蔦子の話などを持ちだした。これから旧跡を訪れてみないかと誘ってみた。
「そうですね、あなたさえよろしかったら……。」
 もう蔦子のことなんかは気にもとめていない様子だった。島村にしても、あれきり蔦子のことなんか忘れてしまっているのが、ふしぎなほどだった。
 二人は出かけた。丁度島村は、その土地に長く出てる静葉というのと懇意だったので、それを呼んで、蔦子のことを尋ねてみた。よく聞きただすと、蔦子というのがいるにはいたが、それは別人で、先の蔦子はもう数年前にやめて、只今はどうしてるか分らないらしかった。
「それでは、こんどの蔦子を呼んでみますか。」
「いや、よしましょう。」
 坪井は言下に答えた。そして島村と静葉との様子をしきりに見比べていたが、ふいに、島村をどうして好きになったかと、静葉にたずねかけた。静葉がただ笑ってると、坪井は、自分が島村を好く理由を話しだした。――まだあの事件以前のこと、彼は島村の彫刻を見たことがあった。その中に、女の胸像が一つあって、少しグロテスクだが、人間的な審美感をぬきにした物質的な動物的な肉体そのものの温みがよく出ていた。島村にもそういう嗜好があるらしい。その頃から彼は島村を知っている、というのだった。
「どうだい、島村さんには、ひどく人情深い善良なところと、ひどく人間離れのしてる冷いところとが、いっしょにまじっているだろう。」
「あなたも、そうらしいわね。」と静葉は答えた。
「ああ、それが僕の悩みだ。その悩みを感じない島村さんは、実際幸福だなあ。」
 そして坪井は、またしげしげと島村の顔を眺めるのだった。その視線の前に、島村はもうすっかり自分をなげだすだけの親しみがもてた。



底本:「豊島与志雄著作集 第三巻(小説3[#「3」はローマ数字、1−13−23])」未来社
   1966(昭和41)年8月10日第1刷発行
初出:「経済往来」
   1933(昭和8)年11月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2008年3月21日作成
青空文庫作成ファイル:
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