中途半端ではすみそうもない、危い瀬戸際にあるようだった。そして坪井も、自分が同じ様な瀬戸際にあるのを感じた。彼は半ば自棄的な苦笑を浮べて云った。
「どうだい、僕と結婚しないか。」
「だめよ。」
「なぜ。」
「なぜでも……。結婚するくらいなら、あたしたち、情死《しんじゅう》しちゃうかも知れないわね。」
「じゃあ、情死しようか。」
「ええ、いいわ。……あたし今日は、酔いたいの。酔って……駄々をこねてもいいでしょう。」
だが、坪井は少しも酔いたくはなかった。胸の底にへんにまじまじと眼醒めてるものがあって、そいつが、蔦子を、また彼自身を、じっと見つめていた。
「おばさんは、いくつだったの。」
「五十……九かしら。でも、年よりずっと老けてたわ。」
彼女は眉根をくもらせて、杯をとりあげた。坪井も杯をとった。そうして酒をのむのはばかばかしかったが、ばかばかしいことは、一番ほかに仕様のないことかも知れなかった。そして彼はまた考えこんだ。おばさんの死の前後のことをもっとくわしく聞きたかったが、蔦子はもうそんなことに心を向けたくないらしかった。生きてる者の、生きてる間だけのこと……そういうところに彼女の気持はあった。それなのに、彼女の真剣に生きることを何が妨げているのか。坪井はまた考えこんだ。
「考えちゃいけないわ。」
「考えやしないよ。」
そして坪井は立上ったのだった。
「帰るの。」
「うむ。」
蔦子は別に引止めなかった。坪井は一人で、薄ら寒い春先の夜更の街路を歩いていった。俺がもし金をもっていたら、蔦子なんかには眼もくれないかも知れないと、そんなことが考えられるのだった。もしひどくせっぱつまったら、彼女を殺すかも知れないと、そんなことも考えられるのだった。
それから一ヶ月ばかりの間――その頃坪井は島村陽一に一寸逢ったのだが――坪井は薄暗い憂欝のなかに浸りこむと共に、蔦子からも次第に遠のいてゆくようだったが……。
或る日、坪井は会社で、また社長の依田賢造から呼ばれた。
「君にまた頼みたい用件が出来たよ。」
依田氏は声をひそめて云った。これから某会社の専務取締のところへ出かけていって、現金七千円と引替に、一ヶ月期限の約束手形八千円の証書を貰ってきてほしいと、ただそれだけのことだった。但し振出人は先方の専務個人で、宛名はこちらの会社だから、それを注意してこなければならなかった。坪井はつまらない用件なのに不審がって、依田氏の顔色を窺った。すると、依田氏はなお声をひそめて、自分が出かけていっては工合がわるいことがあると弁解し、個人にせよ会社にせよ、時として秘密な窮地に立つことがあるものだと云い、この商事会社の立前として無抵当金融は絶対に謝絶しているので、秘密を守るためには君より外に使者がないと云うのだった。もしこの秘密が少しでも外部にかぎ出されたら、いろんな思惑が行われる懸念があると、その点を彼はくどいほど注意した。坪井はぼんやり聞いていた。貪慾そうな彼の口から出るばかにやさしい細い声が、まるで彼自身の声とは思えなかったし、而もその声の背後には、人の心のなかまで見通そうとするような光をひそめた小さな眼が、油断なく監視しているのだった。それらの肉体的な特長に対して、坪井は一種の恐怖と反撥とを覚えて、七千円の包みを抱えながら、静かに室を出ていった。
街路に出て、大きく息をついたとき、坪井は軽い眩暈を覚えた。春の陽光が空に満ちて、その反映のため、大建築の立並んでる丸の内のオフィス街は水中にあるかのようだった。彼は円タクを呼止めるのを忘れて、ぼんやりつっ立った。その時彼の意識の中は、広漠たる空白で、而もその空白のなかに無数の超現実的な映像が立罩めていた。後になって彼は、そうした頭脳の働きを、自分の非社交的な性格の根柢に関係があるものだとし、人工に対する自然の反逆の癲癇的発作だと称した。がそれはとにかく、彼はその時、無数のビルディングの屋根をはぎ壁をはいで、その内部を素裸にして眺めた。出勤時刻のサラリーマン階級の群像が、その上につみ重った。依田賢造の顔が大映しになって前景に浮出した。彼はたえ難い寂寥を覚えた。その寂寥のうちに、肉体的とも精神的ともつかない嘔吐の気を感じた……。
それはただ一瞬間のことだった。彼はすぐに自分自身を見出し、落付いた気持に返った。嘲笑的なものが顔の筋肉を和らげた。彼は歩きだし、往来に唾を吐いた。あらゆるものに反抗したかった……。
其後のことは、簡単に述べておこう。彼は日比谷公園の木影のベンチに一時間ばかり休んだ。それから自動車で上野の方へ向った。懇意な家の一室で、夕方まで蔦子を相手に酒をのんだ。暫く郷里へ帰ってくるという言葉と、二千円の現金とを、呆気にとられてる彼女へ残した。その夜彼は東海道線の列車に乗りこんでいた。
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