だ。流れにのった浮草だ。その浮草にすがって一緒に押し流されることについて、お前は一体何を発見したのだ。つまらない感傷を捨てろ。
――君が説いているのはすべて理屈だ。僕はただ事実だけを知っている。僕と彼女とは愛し合っているのだ。愛は理知的なものではなく、肉体的な秘密だ。例えば、抱き合って唇を合わして見給え。そのままで三十分も一時間も、じっともちこたえられて、なお名残りが惜しまれたら、本当にお互が愛し合える。嫌気がさすようだったら、愛し合えない証拠だ。性慾的行為などは問題ではない。肉体の体質、そこに愛の秘密がある。この秘密を掴んでる者にとっては、生か死かは問題ではない。それを僕は発見したのだ。物理的で而も運命的な愛が世にはある。
――それにしても、お前自身はどうだ。仕事をしたい、生きたい、そのための経済的整理ではないか。生か死かは問題でない愛があるなら、それを自然に生き延させるためにでも、なぜ働かないんだ。お前のような日々を送っていては、経済上の行詰りに当面するのは初めから分っていたことだ。行詰ってから慌てても間に合わない。他人の助力によろうとするのは、卑怯な態度だ。
――またも君は理屈をしか説かない。僕はもう理屈には倦き倦きした。人間の生産力……精神的生産力には、潮に似た干満がある。その干満と外部的な不幸とが重った時に、多くの芸術家は餓死し或は自殺した。僕がもし干潮の状態のままであったら、経済上の整理などは図らなかったろう。満潮にさしかかったとの自信があったればこそ、仕事をするために、不愉快な奔走もしたのだ。僕が可なりでたらめな日々を送ったというのも、早く満潮を来させるためであった。ただ、時機が少しくいちがったのだ。このくいちがいがどうにも出来ないような世の中なら、むりに齷齪することはない。僕に本当に働かしてくれないような世の中なら、こちらから御免を蒙るだけだ。
――よろしい、分った。だが、お前は本当に死ぬ意志をもってるかどうか、それだけの決意がお前に出来るかどうか、はっきり云ってみろ。
そこで、返事はなく、私は一人取残された。彼の姿は消えてしまっていた。私は余り残酷な言葉を発したのだろうか。こういう風に使われた意志とか決意とかいう言葉が、私自身につき戻されると、私は或る憤りを感じて不機嫌になったのである。死ぬための……おう、私は彼にあやまりたい気さえした。
逢う度毎に、彼が次第に元気をなくしてゆくのが見えた。沈痛な陰翳が彼にかぶさって、次第に濃くなってゆくようだった。私は心配になって、彼の経済状態をいろいろ調べてみた。そして驚いた。思ったよりひどかった。あちらこちらに不義理が重っていたし、卑屈だと思えるような負債もあったし、殊に私の注意を惹いたのは、他人の借金を引受けて負担していたもののあることと、次第に専門の金貸からの負債へ他の負債を移してゆきつつある傾向だった。尤も、彼の身分地位上、全部の負債を合してもそう多額に上るものではなかったが、然しまたそれだけ、専門の高利の負債へ移し替えようとする傾向は、先の見通しをつけない無謀なものに思われた。或る捨鉢なものがそこに見られるようだった。古くからの状態を調べて見ると、一寸借金をした第一歩がいけなかったらしく、信用制度の経済組織の穽にずるずると深くはまりこんでいったものらしい。せめて現金制度を堅守していたら、精神的生産力の干潮に際して、彼は果して餓死したであろうか。
先の見通しのない無謀なやり方について、彼の考えをなおはっきり確めるために、私は千代子の方をそれとなく探ってみた。彼女もひどく困ってるようで、呉服屋への支払いなども滞りがちだし、質屋の門もくぐっているらしかった。ただ私によく腑におちなかったのは、近頃彼女がひどく身体を大事にしてることで、酒をつつしみ、食物に気をつけ、指先のささくれにも手当をしていた。この点では彼も同様で、不如意のためからばかりでなく、好きな酒を節し、煙草も節しようと努力していた。これは見方によっていろいろに考えられることだった。
然し私は彼のことにばかりかかわってはいられなかった。彼のために仕事の邪魔をされることさえ困るのだ。心配にはなるが、もう暫く様子を見てるより外はなかった。
仕事について考えながら、池のふちを歩いていると、おい、と私の肩を叩いた者がある。池にはまだ蓮も藻も芽を出さず、平らにしっとり淀んでる水面に、森影と街の灯とが半々に映って、ちぐはぐな瞑想を誘うのだったが、それから眼をあげて、振向いてみると、彼が立っていた。
「君でもこんな所を散歩することがあるのか。」
不思議そうに私の顔を見て微笑した。が私にも、彼のその晴れやかな顔が不思議に思えた。この前よりひどく瘠せていたが、陰翳がとれたようで、眼の光が澄んでいた。どうしたのだと聞くと、十日間ばかり徹夜の形で或る仕事をすましたと云う。
「仕事の義務だけは果したいのだ。」
それが、彼の所謂本当の仕事かどうか聞きたかったが、彼の晴れやかな表情だけで満足して、私は黙っていた。すると面白い発見をしたといって、彼は嬉しそうに微笑している。私はまたかと思ったが、全く別なことだった。
徹夜をして、夜がほんのりと明けてくる時、雀の声をきくのが実に嬉しかった、と彼は話す。彼の書斎の窓際に大きな椎の木があって、それに沢山雀がきた。夜明けに一番早く眼をさますのは雀らしい。そして、眼をさますとすぐに楽しく囀り交わす。彼はその雀たちのために、窓の外の庇に米粒をまいてやった。いつのまにか食べてしまう。然し人が覗いているうちには決して近寄らない。いくら馴らそうとしても馴れない。ところが仕事をすました朝、彼が放心のていでつっ立って、ぼんやり夜明の空を眺めていると、雀がすぐ側まで来て米粒をひろっているのだった。気がついて眼をやると、雀がぱっと逃げてしまった。
「偶然の一致だろう。」と私は云った。
「偶然じゃない。自然界はそうしたものだ。」
彼はそれを信じきっているらしかった。そしてその発見がとても嬉しいという。そんなことを話しながら、彼は私を誘った、支那料理のさっぱりしたものだけで老酒を飲むのだと。金が少しはいったから心配はないという。そして連れだって歩いているうちに、ばったりと、まるで足の骨が折れでもしたように、彼は躓いて倒れた。手をかしてやると、すぐに起き上ったが、眼に一杯涙ぐんでいた。私は眼を外らした。芝居や映画などで、いつも私のことを泣き虫だと笑っていた彼だ。嘗て涙を見せたことのない彼だ。気がついてみると、彼の歩き方はふらふらして力がなかった。よほど無理をして仕事をしたに違いなかった。
普通の日本座敷で紫檀の卓で、二三の料理に老酒を飲んでるうち、彼は淋しい顔をして、呼んでもいいかときいた。千代子のことだ。私は分ってはいたが黙っていたのだった。
彼女は黒襟のかかった平素着でやってきた。やはり朗かそうだった。一体私は、ひどく頼りない感銘を彼女から受けるのだ。何だか磨きの足りない、伝法肌の気まぐれな朗かさが、そうした感銘を与えるのかも知れないが、私はそれを飛行機だと冗談に云っていた。いつも飛行機に乗っているような彼女と、元来はのんびりした物にこだわりのない彼とは、調子が合うのかも知れないが、それがどちらからも一図に心を寄せ合うと、これはどうにもいけないと私にも危ぶまれるのだった。彼は雀の話を彼女にもしてきかせた。彼女は何か心を打たれたようで、暫く考えこんでしまった。
四五日か一週間旅をしよう、と彼は如何にも呑気そうに云っていた。大丈夫ですかと彼女は尋ね、大丈夫だと彼は答える。お金のことらしい。そうしてもう相談がきまってしまった。これはめちゃだと私は思うのだった。そんな場合じゃあるまい。然し……漠然とした危懼が私を囚えていった。その危懼を打消すことで私は憂欝になった。
そこを出て、池のまわりを散歩するという二人に別れて、一人になると、私はなぜか首垂れて考えこんで歩いていた。あの二人を幸福にしてやりたい、勝手なことをしてる彼等ではあるけれど、真面目な仕事と生活とをなし得る彼等だ……そんなことを私は思い、漠然とした反撥心を世の中に対して懐いていた。社会の制度が重すぎるのではないか。
その夜遅く、彼が姿を現わした時、私はひどく悲しい気持になっていた。それは別離の悲しみに似ていた。
――旅に行くのか。
――行こうと思っている。
――死ぬのではあるまいね。
――安心し給え。僕には死ぬというような意志や決心は持てないのだ。然し、自然の死は致し方がない。
――反撥しようという気はないのか。
――何に対してだ。僕は自然を尊ぶ。反撥によって自然を歪めたくはない。
――自然に逃げこむのは卑怯だろう。
――或はそうかも知れない。人生は人為だからね。然し、いろいろなことに面倒くさくなると、純粋な自然というものが考えられてくる。
――それは意志の喪失だ。
――僕にとって大切なのは、意力より感性だ。
――禽獣になれ。
――よりも、赤ん坊になりたい。
そこで彼は、非常に微妙な笑みを浮べた。私はそれに見覚えがあった。一時間も二時間も寝そべって、空の雲を見てる時、庭の蟻を見てる時、遠い昔の夢をでも思い出したらしい時、彼が無心にもらす微笑だった。また、ふくらんだ紙入を懐にした時の微笑だった。そんな時彼は、実用的なものよりも、不用なものを多く買った。或る時彼は、高さ一丈余の大きな自然石――見様によっては狸が立ったようにも見える得体の知れぬ石を、しきりに買いたがったことがある。何にするのかときくと、やはりこの微笑をもらした。私はそれに対して、ともすると苛立たしい気持になるのだ。
今も私は、或る苛立たしさを以て、彼の顔をじっと眺めた。彼の晴れやかだった顔が、急に悲しそうになった。取っつきを失いながら立去りかねてる悲しみだ。ばか、と私は怒鳴った。そして消えてゆく彼の後から叫んだ。
――死ね、死んでしまえ。
泣き虫だと彼から笑われた私は、不覚にもまた涙をこぼした。厄介な彼、邪魔な彼、自分の半身の彼を、私は愛していたのだ。
底本:「豊島与志雄著作集 第三巻(小説3[#「3」はローマ数字、1−13−23])」未来社
1966(昭和41)年8月10日第1刷発行
初出:「文芸」
1934(昭和9)年6月
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2008年5月9日作成
青空文庫作成ファイル:
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