死ね!
豊島与志雄
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)隙《ひま》だ
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(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)小説3[#「3」はローマ数字、1−13−23]
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私と彼とは切っても切れない縁故があるのだが、逢うことはそう屡々ではない。私はいつもひどく忙しい。貧乏で、わき目もふらず働き続けなければ、飯が食えないのだ。ところが彼は、いつも隙《ひま》だ。のんきに、夢想したり、歩き廻ったり、酒を飲んだりして、日を送っている。それかって、財産があるわけではない。私に金銭上の迷惑をかけたことも度々ある。「人の厄介になるよりは、なぜ自分で働かないんだ、」と私はいうのだけれど、彼はいつも平然と答える、「今に働くよ。」それが、口先だけのものではなくて、心の底から信じきっているらしい誠実さがこもってるので、私はつい、その「今に」を信ずることになる。だが、それは、いつまでも現在になることがなく、先へ先へと延期されていく。太陽を背中にした時の影法師みたいなものだ。進むだけ先へ進む。然し彼は、それをむりに追い捕えようともしない。そしてのんきに、ぶらぶらしている。どうやりくりしているのか、苦労の影さえない。それがどうも私には不思議だ。だけど、彼のその秘密にばかり関わってるほどの余裕は、私にはない。私は日々のパンのために忙しいのだ。そして忙しい者と隙な者とは、そう屡々逢えないものらしい。機会のくいちがいといったようなものがあるのだろう。
ところが、或る晩、彼に不思議なところで出逢った。
私はいくら忙しいといっても、毎日朝から晩まで働きづめでいるわけではない。そんなことは人間として出来るものではない。たまには肉体的息ぬき、精神的保養も、必要である。そんな意味で、ばかげた酒を飲んで、すっかり酔った。風がなく、なま暖く、空はぼんやり霞んでいそうな気配。外を歩いていると、家の中にはいるのが息苦しく思われるような晩だ。こんな時には、病院ではきっと誰かが死ぬ。
薄暗い横町の角のところに、下水工事の掘り返されてるのがあって、街路の片側に、コンクリートで出来てる大きな土管が転っていた。ばかに大きくて丸い。私はそれに気を惹かれて、ステッキの先でつついていった。ただコツコツと、岩石をつきあてるようなものだ。感心してなおコツコツやっていると、尖端の穴から、ぬっと男が出て来た。それが、彼だった。暖いのに、まだ冬のマントを着ていた。その長髪はばさばさして艶がなく、蒼ざめた頬へ疲労性の熱が浮いていて、瞳が据っていた。彼は私を見てとると、手に持っていた帽子を土管の上に投りつけた。怒っているようだった。
「何をしているんだ。」
私は呆れた。
「君こそ何をしていたんだ。」
彼はそれには答えないで、帽子を拾って頭にのせてから、私の方をじっと眺めた。私は軽蔑されるのを感じて、眼を伏せた。すると彼は私の腕をとって歩き出した。
「僕は面白いことを発見した。」と彼は話し初めた。「もうとてもいけないと思って、千代子にそう云うと……。」
その、もうとてもいけないというのが、私から見れば、呆れはてた考え方なのである。前に云ったように、彼は殆んど借金で生活していた。友人たちから、借りられるだけ借りた。それから高利貸から借りた。利子が払えなくなると、他の高利貸から借りた。そういう風で、今に行き詰ることは眼に見えていた。然し彼は平然としていた。も一つの「今に」が控えていた。「今に仕事をする、そして借金なんか……。」その自信が余り大きかったので、他人の借金まで引受けるようなことをした。困ってる者が相談にくると、少々の金なら出してやり、都合がつかないと、借金の連帯保証をしてやった。それが全部かぶってきても、別に嫌な顔はしなかった。自分で借りたものよりも、そうしたものの方が多かったかも知れない。彼は田舎に多少の土地を持っていて、ほんとに困るとそれを売ったり、抵当にして金を借りたりした。だからわりに長く持ちこたえたとも云える。ところが、そうした借金はふえてくるばかりなのに、「今に仕事をする」その今にの方は、なかなかやって来なかった。なぜだか彼自身にも分らなかったらしい。人間の生活は、習慣に支配されてるもので、今に仕事をすると考えながら怠惰に日を送ることが、彼には一種の習慣となっていたのかも知れない。そして愈々やりくりがつかなくなると、彼は借金を全部計算してみて驚いた。意外の額に上っていた。そこで決心をした、仕事をしようと。然しそれには、さし当って面倒なうるさい借金だけは整理しておく必要を感じた。そのために土地を全部まとめて担保にいれて、四五千円拵えようとかかった。ところが、それが出来なかった。千か二千は出来たろうが、それは半端で間に合わなかった。彼は首を傾《かし》げた。思った金額が出来ないのが不思議だった。彼にとっては、金の問題は凡て小学校の算術だった。これだけ借りて、こうして、これだけずつ払っていく。計算が明瞭についた。ただ、前提となるべき借金だけが出来なかった。それが彼にとっては不思議極まることだった。そんな筈ではなかったのである。水は高い所から低い所へ流れていく。今はこちらが水量が足りないから、よそから流しこんでおいて、やがて仕事によって水量がましたら、また他の方へ流してやるつもりだった。それが齟齬を来したのである。要するに、金を借りる時期と、支払う時期――即ち仕事をする時期とが、距りすぎていたのである。後者の時期の方が前者の時期に先立たなかったことも、彼にとっては不思議に思われた。
彼は少し疲れた。面倒くさくなった。こんな世の中ならもう死んでもいいと思った。元来、彼は生への強い執着を持たなかった。為すべきことが多くあるから是非とも生きていたい、そういう不遜な考えは少しもなかった。生きてる間何かをしておれば、いつ死んでもよいのだった。そういう気持なのに、現在、彼は少しも仕事をしていなかった。だから余計、いつ死んでもいいということになった。
但し少しも仕事をしないというのは、彼の主観的な表現である。彼は少しは働いていた。然しそれは本当の仕事ではないというのである。借金がふえると同時に、びっくりして、種々のつまらない仕事をやめて本当の仕事に専心しようと考え、そのために負債整理を企てたのである。茲に断るまでもなく、彼は文学者だった。文学者というものは、本当の仕事とかつまらぬ仕事とか区別をつけたがる。然しその区別は、ただ主観的なもので、恐らく神にだって分るまい。だから、本当の仕事がしたいというのは、実のところ、真剣に働きたいということに過ぎないかも知れない。
負債に煩わされて真剣に働くことが出来ないとすれば、そしてそのごたごたした負債を整理することも出来ない世の中だとすれば、死んだ方がいいだろう、という風に、いつ死んでもいいという彼の気持は、死のうかなあという動きに変った。
「そこで千代子にそう云うと……。」と彼は私に話し続けるのだ。
千代子というのが彼の愛人なのである。愛人という言葉は少し変だが、実を云えば、彼と惚れ合ってる芸者の本名なのである。
「もうとてもいかんよ。僕は死のうかと思ってる。」と彼は微笑しながら云った。すると彼女は、別段驚きもせず、彼にいらえてやはり微笑している。あと一週間か十日だよ、と彼が云うと、彼女は答えた。
「ではあたしも、それまでに用意しておくわ。」
簡単至極である。その時彼女は電気スタンドの紐をいじくっていたが、ふいに、ぽつりと一粒の涙を眼に浮べて、それをまぎらすように、また微笑してみせた。
ひどく冷かなものを彼は感じたのだった。普通ならば、どうしていけないのか、どれくらいの借金があるのか、どれくらい財産があるのか、収入はどれほどか、そうしたことをいろいろ尋ねて、果して死なねばならぬほどであるかどうかを確める筈である。そして愛する者を生かしたい、お互に生きたい、生きて愛したい、そう思うのが人情であろう。然るに彼女は、何一つ尋ねなかった。彼の状態について何一つはっきりしたことは知っていなかった。金銭上の事柄については彼は何にも話してはいなかった。そして彼がいきなり、もうだめだから死のうかと思ってると言い出すと、微笑を浮べながら云い出すと、あたしも用意しておこうと云うのだ。それ以上の冷淡さがあろうか。彼が冷りとして眺めると、彼女は涙を浮べながら微笑してみせるのだ。
その冷淡さを彼は考えまわしたのだった。そしてはっきりした解釈がつかないうちに、いつのまにか、彼女と一緒に死のうという決心になっていった。これまでぼんやり死のことを考えていた時、彼は一度も彼女と一緒に死ぬなどという気持にはならなかった。死ぬのは自分一人のことだった。ところがふいに、彼女の冷淡な言葉にふれて、彼は彼女と一緒に死のうという気になった。
「それが、発見なのだ。」と彼は私に云った。
これはもうどうも仕様がないことかも知れない、そんな気持に私もなって、彼に連れられて、彼女――千代子に逢いにいったのである。
廊下が際立って美しく拭きこまれ、床の間の活花がばかに新鮮で、掛軸の長押の額が古風な、奥の一室で、私と彼とは酒を飲み初めた。二人とも可なり酔っていたが、まだだいぶ飲めそうだった。杯を見ると彼は嬉しそうににこにこしていた。私はともすると考えこみがちだった。
随分待たしておいてから、千代子は息を切らしてやってきた。「おう苦しい。」それが彼への挨拶で、とたんに坐りなおして、しばらくと私に挨拶をした。私は彼と一緒に何度か彼女に逢ったことがある。この前から見ると、彼女はだいぶ痩せていた。それが、大柄な彼女の肉体をいくらか清澄に見せていた。それでも私はともすると彼女に反感を懐きがちだった。彼が怠惰な日々を送って経済上の難局に当面してる一半の責任は、彼女にありはすまいかと疑ってもみた。その上、酒の酔は人を饒舌に無遠慮になす。彼に余り苦労をかけてはいけないよ、と私は彼女に云った。苦労なんか……さも可笑しいというように、彼女はちらりと彼の方を見た。ばか、彼は生きるとか死ぬとかいってるんだ、と私は彼女に云った。あら、あたしだってそうよ、と彼女は事もなげに云って、彼の方をちらと見た。君と一緒に死ぬともいってるよ、と私は彼女に云った。そんなら嬉しい、と彼女は素直に受けて、彼の方をちらと見た。私はばかばかしくなった。彼女はただ上の空の返事ばかりしていて、私の言葉は彼女の視線に乗って彼へぶつかってゆくのである。その彼はただにやにや薄ら笑いを浮べて嬉しそうに酒を飲んでいる……。
私は腹が立ってきた。こんな奴、殴ってしまうに限る、と思って立上ると、彼もふらりと立ってきて、私たちは取組み合った。尤も、酔狂の上のことで、千代子が笑って見ていたほどふざけたものだったが、それでも私が一押しすると、彼はよろよろとくじけて、千代子の肩にすがり、その花模様の膝にすべり落ちた。島田に結った髪の大きな影が、彼をすっぽり包みこんだ。
彼等をそこに残して、私は立去った。不安が湧いてきた。彼の弱々しさと窶れ方とが頭に残っていた。凡てを投げ出しているような千代子の態度も気になった。彼女の冷淡な言葉と彼は云っていたが、恐らく彼はそれによって、文字の意味とはちがったものを表現していたのだろう。危い、と私は思った。然し彼のような男が自殺する……。この考えは私には、何だか滑稽にさえ思われた。いつ死んでもいいということは、いつまで生きていてもいいということに外ならない。それは自然に任せるということだ。自然に任せるということは、意志的な自殺などとは凡そ対照的だ。
忘れよう。私は忙しかった。
然しともすると、彼の姿が頭に浮んでくるのだった。それが仕事の邪魔となった。私は眉をしかめて、彼に詰問した。
――お前は、あんな女のどこがいいんだ。単純な無智なああいう種類の女は、生に対して盲目であると共に、死に対しても盲目
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