柳はすんなりと枝垂れていた。
そこに浮んだ少女の顔は、やはり大体の輪廓だけで、あの物言いたげな口元も、それから殊に、あの恐怖と絶望の毒気の訴えも、全く見分けられなかった。けれどあの顔だとはっきり分った。
なにか妙なことになったのだ。その顔が十内に親しく思えたのである。
眼を閉じて暫し佇むと、もう少女の顔は消えた。十内は思い沈んで、ぼんやり歩いていった。
河岸通りを過ぎると、横手に公園ともつかない広場があり、誰もいなかったので、十内はそこにはいり込み、篠懸の下のベンチに腰を下した。たいへん疲れた心地だった。
郷里の伯母の姿が思い出された。
彼女は農家の広い縁側に坐って、ぼろ布をいじっていた。他の者はみな田圃に出ており、十内の母も兄も墓地に埋っていた。十内が東京に出てゆくのを、伯母はやさしく引立めようとした[#「引立めようとした」はママ]。ここにいなさい、ここにいつまでもいなさい、もうあんなところに行きなさんな、と伯母は言った。
あんなところ、そうだ、十内は省みて、東京をあんな所と感じた。
血腥い事件や狡猾な葛藤が、毎日の新聞紙を賑わしており、それからまた、婦人警官だの警察予備隊だの、更には、世界各地から集まってくる軍備だとか戦争とかの報道。忌わしい坩堝だった。
伯母の顔は日焼けがして、都会人の皮膚の幾倍もの厚さをしていた。その額に深い皺が寄って、土地の起伏を思わせるものがあった。
その額の皺、その土地の起伏、そしてそこの農民たち、生活の困苦窮乏が表面に見えてはいるが、掘り返したら、新らしい清らかなものが見出せないであろうか。
あの青服の少女も、農家の娘だった。
その少女の幻影が、なぜかくも身に親しいものとなったのか、十内自身にも分らなかった。贖罪の心からか、神を想う心情からか、そのようなことは十内の思惟を超える事柄だったが、とにかく、あの少女の幻影を安らかに埋めるには、伯母の膝許が最も好適の地と感ぜられた。
十内が寄寓してる家の近くで、この頃、毎日早朝、きまって五時に、太鼓の音が聞えた。神社か、神官の家か、または個人の邸宅か、それは分らなかったが、みそぎ祓いでもしているのであろうか、ドーン、ドーン、と初めは緩かに、それから次第に急に、ドンドン、と続き、それが三度ばかり繰り返されるのである。何の調律もないただ単調なだけのその音が、へんに十内の心
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