という論拠なのだ。然し僕にとっては、彼女は愛人なんかではない。情婦というにも価しない。ただ僕は、消極的に、鄭重に、彼女を待遇してるだけのことだ。本当に愛情を持つ場合には、何等かの意味で、積極的になり、攻勢的になるものだが、僕は彼女に対してそんなことは嘗てなかった。ただ、何事をも拒まなかっただけのことだ。
「室の壁を塗り代えさせたいと思うんだけど、壁土が乾くまではとても冷えるんですって……。だから、その間、あなたんとこへ泊りに行っていいかしら。」
そういう三千子の提案を、僕は無条件に承知したに過ぎない。実際、ムラサキの二階の彼女の居室には、左官屋が仕事を始めた。彼女は近所の便利なところに、泊り場所ぐらいは見つけられた筈だが、夜遅く、電車で僕の家へやって来た。そして朝寝坊をし、午後になって出かけて行った。僕はなんにも構わず、彼女の為すままに任せておいた。
僕の方も宵っぱりの朝寝坊だ。亡父の時代からの写真業の方は、だいたい原野がやってくれているから、僕は道楽の古代文字研究に耽ることが出来るのである。碑面、塋窟の壁面、石器や陶器、其他種々の考古学的資料などについて、夥しい写真を蒐集している
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