をうっとりと弛ませていた。
 私は眼を外らして、露を含んだ庭の植込に、斜にさしてる黄色っぽい朝日の光を見ながら、吉岡と看護婦とが昨夜どんな話をしたのだろうかと想像してみた。がそれは、月の光、虫の聞、肺病患者、看護婦……そう云ったものから連想される話とはずっと異った、至極健全な常識的な而も謎のような、全くお伽噺とも云えるようなものだったに違いない。
 吉岡は私の視線を辿って、障子の腰硝子から庭の朝日の光を仰いだ。暫く黙ってた後に、低い声で云った。
「だが………月の光や虫の声よりも、朝日の光の方がいいね。」
 それでも私の耳には、植込の影にちろちろ泣き後れてる虫の声がび[#「虫の声がび」はママ]聞えていた。振向いて見ると、彼は眼を見据えたまま珍らしく微笑んだ。その、爽かな明るみの中に浮出してる窶れきった蒼ざめた頬に上った、弱々しい恥しそうな微笑の方が、お伽噺なんかのことよりも深く私の頭に刻み込まれた。
 そしてもう私達は、河野のことや八百円の金のことなんかは、一言も口にしなかった。そんなことはどこかへ飛び去っていた。――表面から見れば、得をしたのは看護婦である。



底本:「豊島与志雄著作集 第二巻(小説2[#「2」はローマ数字、1−13−22])」未来社
   1965(昭和40)年12月15日第1刷発行
初出:「改造」
   1924(大正13)年9月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:門田裕志、小林繁雄
2007年8月22日作成
青空文庫作成ファイル:
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