それと同じ意味のことを、僕にくり返して云ってくれたじゃないか。そのことなんだ。僕はそんな贅沢な気遣いから、すっかり遁れてしまいたいんだ。君が受取ってさえくれれば、何もかもさっぱりするんだ。本当はもっとたってからにした方がいいかも知れないが、僕のような病人は気が短くって、ぐずぐず引延すのは嫌でたまらない。僕の心持をからりとさせるために、納めといてくれ給え。君はただ貰うのは心苦しいと云うだろうが、それ以上のことを僕にしてくれた。僕はこの二三日、皆から寄ってたかって、死の宣告を与えられてるような気がしていた。もし万一の場合があったら……とそう皆が思って、影でその時の用意ばかりをしている、とそういう風に感じた。生きようと思ってる僕にとって、それがどんなにひどい圧迫となったかは、健康な君達には想像もつくまい。所が昨夜、僕は君の言葉を聞いて空が晴れたような気がした。私がついていた患者の人で、亡くなったのは今迄に一人もありません、私は看護婦をしている間、一人の患者さんも殺さないと誓っています、あなたも屹度おなおししてみせます。とそういう風なことを君は云ってくれたろう。僕はその時の君の顔付で、それが嘘の言葉でないことを知った。そしてたったそれだけのことが、僕にはどんなに力となったかも知れない。僕が生きられるとすれば……実際はいつ死ぬか分らないけれど、死ぬ間際まで輝かしい生の希望を持ち続けられるとすれば、それはみな君のお影なんだ。僕は本当にお礼を云うよ。そういう僕の気持に対してでも、君はそれを受取ってくれてもよさそうなものじゃないか。」
「ほんとに、何にも云わないで、弟さんのために納めといて下さい。」と敏子さんは涙ぐみながら言葉を添えた。
それで看護婦は、お辞儀をしながらぽたりと涙を落して、洋封筒を押し戴いた。敏子さんも涙を落した。
「どうしたのか自分でも分りませんけれど、しきりに涙が出てきて困りましたの。」と敏子さんはその話を結びながら、また興奮して涙ぐんでいた。
私は勢よく立上った。敏子さんに連れられて離れの病室に通った。
吉岡の顔は見違えるように変っていた。朝の光のせいばかりではなく、陰欝な刺々した曇が取れて、静に落付いて澄んでいた。今まで垢じみていたのを、湯にはいり髯を剃った、というような変り方だった。それでもやはり、※[#「臣+頁」、第4水準2−92−25]には粗らな髯が伸びており、頬は蒼白く肉が落ち、眼は凹んで底光りがしていて、どこからそういう変化が来たのか捉え難かった。軽い驚きで眺めていると、ふと可笑しな比較が私の頭に浮んだ。今迄の彼の顔を殼のままの鶏卵であるとすれば、今の彼の顔は、殼をはいだ白身と黄身とだけのそれだった。そして私は或る聖い恐れをさえ感じた――臨終にぱっと輝く生命の光り、それに対するような聖い恐れを。でも彼は、熱も下り脈もよほど順調になっていて、平静な呼吸をしていた。
「気分が大変いい。」と彼は云った。
「昨夜つい遅くなったものだから……。」と私は弁解するように云った。
「そうだってね、よく眠れたかい。」
「ああ。」
「僕は非常によく眠れる時があったり、ちっとも眠れない時があったりするんだが、どんな場合にでも眠るのはいいことだね。でも、昨夜は眠れなくて却っていいことをした。」
「いいことって……。」
「お影で月を見たよ。いい月夜だと君が云ったのを思い出して、それが是非見たくなって、あの人とさんざん云い争って喧嘩をした揚句、とうとう雨戸を開いて貰って、障子の硝子から眺めたんだが、沈みかけた半分ばかりなのが実に綺麗だった。……が不思議だねえ。月の光を見ると同時に、虫の声が急に聞えだしてきて、後で雨戸を閉めてからも朝まで聞えていた。それまでは少しも聞えなかったのに……。」
「それはただ気付かなかっただけのことじゃないのか。」
「いや、しいんとしていて、僕は何かに聞き入るような心持でいたので、気付かない筈はなかったのだ。月を見てから後は雨戸をしめても、うるさいほどはっきり聞えたんだからね。」
「何だか夢みたいな話だね。」
「ああ全く夢みたいな話さ。月を見ながら、あの人がお伽噺をしてくれたんだから。」
「お伽噺を……。」
「そうだまあお伽噺だ。」
その声を聞きつけてか向うの隅で何やら話し合っていた敏子さんと看護婦とが、一度に顔を挙げて私達の方を見た。看護婦はもう朝の身仕度を済していたが、櫛の歯のよく通った大きな束髪と顔に塗った仄白いものとに対照して、まざまざと睡眠不足の疲れが現われてる頬や額の皮膚の下に、何だかこう厳粛な一途な信念とでもいうようなものが露わに覗き出していて、ぴんとした細い一文字の眉が一寸美しく見えていた。が敏子さんの方は、もう先刻の興奮からさめて、解き放されたような安心しきったような風に、細面の頬の肉
前へ
次へ
全11ページ中10ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング