た髪を一寸かき上げて、顔だけはちゃんと化粧している敏子さんが、晴々と緊張した面持で私の所へやって来た。
「あなたが泊っていらしたことを云いますと、吉岡はすぐに逢いたいような風でした。あちらへいらっして下さいませんか。」
「え、どうかしたんですか。」
「ああそう、あなたにはまだ申上げませんでしたのね。」
 そして敏子さんは朝の出来事を話してくれた。
 夜が明けたばかりの頃、敏子さんが眼を覚して病室の方へ行くと、吉岡はそれを待ち構えていたらしく、側に呼んで、八百円の金をどうしたかと尋ねた。まだ預ったままであると答えると、それならば、看護婦の弟の学資にそれをそっくり寄附しようじゃないかと、思い込んだ調子で相談しかけた。敏子さんは返辞に迷った。その看護婦は幼い時母親に死なれ、父親とは別れ別れになり、今では頼りになる身内もなく、医学専門学校へ通ってる一人の弟へ、独力で学資を出してやってるという、憐れな感心な話だったし、また、吉岡の付添に来てから一ヶ月近くの間、言葉少く而もごく忠実に尽してくれるので、敏子さんは好意を懐いていた。その上、敏子さんは実際洋封筒の金を持てあましてもいた。然し、そんなことをしては河野に済まないようにも思えた。それを云い出しかねてもじもじしてると、吉岡は云った。
「僕は今すぐあれを渡してしまって、何もかもさっぱりしたいんだ。」
 そうだ、早くさっぱりしてしまった方がいい、と敏子さんは考えついて決心した。そこへ顔を洗って戻ってきた看護婦の看病窶れの姿を見て、一層その決心が固まった。
 そして間もなく、吉岡と敏子さんとは、看護婦を吉岡の枕頭に呼び寄せて、河野が置いていったままの洋封筒を差出したのである。が彼女は下を向いたまま、どうしても受取ろうとしなかった。敏子さんは静かな調子で願った。吉岡は強い調子で説きつけた。
「初めからのことを知ってる君には、僕達が無理に好意を押しつけようとしてるように取れるかも知れないけれど、決してそうじゃないんだから……。受取って貰った方が僕には有難いんだ。僕が話してきかした時君は、河野さんの気持が分らないと云ったじゃないか。僕には君がそれを受取らない気持の方が分らない。そんなつまらないことを気にかけないで、さっぱり忘れてしまった方がいい、いつまでもそれにこだわっているのは、贅沢なことだと……いや君は贅沢だとは云わなかったが、まあ
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