出なかったが、ただ脈搏が非常にいけなかった。
「それならば猶更、もうあのことには触れないで、そっとしとく方がいいでしょう。」
 そう私は結論から先に云っておいて、前日の吉岡との話やその日の河野との話などを、かいつまんで敏子さんに聞かした。
「そんな風に変に気持が喰い違っているので、触れれば触れるほどこんぐらかるばかりです。黙ってそっとしとくより外はないと思いますが……。」
「そうでございますね。」
 敏子さんは私の下手な説明が腑に落ちたかどうか、曖昧な返辞をしたが、不意にぎくりとしたような様子で、帯の間から大きな洋封筒を取り出した。
「でも、このお金は、どうしましょう。」
 敏子さんはその洋封筒を、前日からずっと、そしてその日も朝から、帯の間に挾んで持ってたものらしい。それが妙に私の心を惹いた。
「そんなものはどこか、おしまいなすっといたらいいでしょう。そのうちに片がつくでしょうから。」
 その時敏子さんが心持ち眼を丸くして、ちらと微笑の影を浮べたので、私は大変心が軽くなるのを覚えた。そして一寸病室に通して貰った。
 私の考えでは、晴々とした顔付でいっていって、昨日のことなんかはけろりと忘れはてた様子で、当り障りのない挨拶をして、少くとも表面は黙殺で一切のけりをつける、とそういうつもりだった。変に相手の気持を探ろうとするようなことよりも、呑気を装ったこの芸当なら、私にもよく出来そうだった。所が病室の前までくると、変に何か重苦しいものに威圧される心地がして、頬の筋肉が独りでに硬ばってくるのを覚えた。
 吉岡は仰向きに寝ていた首を少し私の方へ向けかけたが、すぐにまた元の姿勢に返った。私は少し離れた所に坐りながら、云訳でもするような調子で云った。
「ぶらりと散歩に出てみた所が……。」その時、先刻見た東の空を出たばかりの綺麗な月が私の頭に映った。「あんまり月が綺麗なものだから、当もなく歩いてるうちにこの近くまで来たので、一寸寄ってみた。外はいい月夜だよ。」
「え、そんなにいい月なのか。」
 何気なく云ったことが不思議に強く反応したので、私は少し面喰った。
「なに、平凡なただの秋の月なんだが……。」
「そりゃあ月に変りはないさ。」
 切り捨てるように云い放って、電燈をまじまじと見守ってる顔の、骨立った所々に光を受けて、肉の落ちた凹みには、仄暗い影が匐い寄っていた。それを何気な
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