の主人公に対する倫理批評と作家の主観に対するそれとが混同されんとする傾きがありはしないかということである。従ってまた、その傾向よりして余り喜ばしくない種類の創作を助長しはしないかということである。
 例えば或る自叙伝的な作品の主人公に対して倫理的批評をするとする。そしてその人格的欠陥なり弱点なりを抉出するとする。そしてそれを以て直ちに作者の主観そのものに矛を向けるとする。その時作者が、「あれはああいう人物を描写した作だ。」と云ったならば、評者は何と答えるだろう。これは作者の大なる手腕の勝利だ、そして批評者に対する致命的な反語だ。然しそれはそれとして、その裏を返して云うと斯ういうことになる――或る他の作品に対してその評者はこんなことを云うだろう、「この作品は如何にもまずい。丸で何にも描かれていない。然し其処には作者の力強い主観が現われている。貴い作者の人格の努力がある。それでこの作は救われている。」此の言は或る特別の場合にはその作家に対する親切な激励となる。然し多くの場合には、その作家に危険な影響を与える。
 茲で一寸芸術に対する私の考えを述べなければならないが、それは長くなるから、先ず概略を云うと、私は芸術に或る点まで具象性と独立性とを要求する。芸術は丸彫にされたものでなければならない。(この丸彫という言葉はいつか武者小路[#「武者小路」に丸傍点]氏によって使われていたように記憶する、但し茲に私が謂うのと同じ意味でかどうか覚えてはいないが。)換言すれば、芸術は単なる感想ではない。思想のみを内容とする芸術を私は信じない、芸術のうちには思想と共にそれを容るる血と肉とがなければならない。即ち丸彫にされたものでなければならない。それ自身に具象性と独立性とを有するものでなければならない。そしてその背景に、真に見えざる背景に作者の主観が存するのは前にも述べた所である。即ち芸術は作者の主観を担いながらそれ自身で立っているべきである。
 然しながら、私と雖も真の祈祷的作品、換言すれば作者が自己の血と肉とをそのままに投げ出して其間に何等間隙のない作品、その存在を肯定し得る、その場合には作品の主人公は即ち作者たり得る。然しこの場合に於ても、否特に、その作品は丸彫にせられたものである。それは自己を丸彫にしたものだ。そしてかかる作品に対してはじめて、主人公に対する倫理批評は作家に対するそれ
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