のように眺め初めた。そして彼女がまた、煖炉棚の上の人形を見ている時、坂田は眼を開いた。
「敏子さん。」そう彼は呼んで、ちょっと間をおいた。「あなたが、子供の時から今までの間に、一番嬉しいと思ったことか、悲しいと思ったことか、どちらでもいいから、聞かして下さい。」
 敏子は黙っていた。
「何でもいいんです。心に残ってることを、一つだけでいいんです。」
 彼は両腕をくみ、また眼をつぶって、深々と椅子によりかかって、待った。
 敏子はだしぬけに、そして静かな調子で、身動き一つしないで話しだした。
「……あたしには、母の乳が足りなかったものですから、乳母がありました。その乳母が、あたしの六つか七つの時まで、小学校にあがる前まで、家にいて、そして暇《ひま》をとって帰っていきました。その時、大変悲しかった筈ですけれど、よく覚えていません。そして……一月ばかりたってから、その乳母がたずねてきてくれました。嬉しいような極りわるいような妙な気持でした。乳母は母と話したり、台所を手伝ったりしていましたが、早めに、あたしたちと一緒に夕御飯をいただいて、それから、あたしだけつれて、河の土手に遊びに出かけました
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