のように眺め初めた。そして彼女がまた、煖炉棚の上の人形を見ている時、坂田は眼を開いた。
「敏子さん。」そう彼は呼んで、ちょっと間をおいた。「あなたが、子供の時から今までの間に、一番嬉しいと思ったことか、悲しいと思ったことか、どちらでもいいから、聞かして下さい。」
敏子は黙っていた。
「何でもいいんです。心に残ってることを、一つだけでいいんです。」
彼は両腕をくみ、また眼をつぶって、深々と椅子によりかかって、待った。
敏子はだしぬけに、そして静かな調子で、身動き一つしないで話しだした。
「……あたしには、母の乳が足りなかったものですから、乳母がありました。その乳母が、あたしの六つか七つの時まで、小学校にあがる前まで、家にいて、そして暇《ひま》をとって帰っていきました。その時、大変悲しかった筈ですけれど、よく覚えていません。そして……一月ばかりたってから、その乳母がたずねてきてくれました。嬉しいような極りわるいような妙な気持でした。乳母は母と話したり、台所を手伝ったりしていましたが、早めに、あたしたちと一緒に夕御飯をいただいて、それから、あたしだけつれて、河の土手に遊びに出かけました。町のすぐそばの河なんです。夏のことで、まだ明るくて、水の面《おもて》に小魚がはねてるのが見えました。乳母はあたしを土手の草の上に坐らせ、自分もすぐそばに坐って、長い間だまっていました。あたしは歌をうたっていましたが、それにもあきて、乳母を見ると、乳母の頬に涙が流れているんです。ばあや、なぜ泣くの、とききますと、こんどはほんとに声をたてて、あたしの肩をだいて泣きだしたんです。あたしもなんだか悲しくなって、涙ぐんでいますと、乳母はじっとあたしの顔を見て、それから、お嬢さま、わるいことをしました。お許し下さいと、頭をさげるんです。あたしには何のことかさっぱり分りません。お許し下さいますかって、なんどもきかれて、あたしはただ、なんでも許してあげる、と云いましたの。すると、乳母はほっと太い息をついて、それから、手にもっている小さな風呂敷包みを……その時まであたしは気にもとめていませんでしたが……その包みを開きました。中はまた、新聞紙包みになっています。その新聞紙をとると……あらッとあたしは声をたてました。あたしの着物……大きな赤い牡丹のついた、友禅模様の金紗の袷です。乳母はそれをあたしの膝の上において、あやまるんですの。お嬢さまに別れるのがつらいから、悪いことと知りながら、このお着物を盗んで持って帰りました。お願いすれば下さることは分っていましたが、なんだか申しにくくって、だまって盗んでいきました。けれど、あとで心に咎めて、どんなにか泣きました。そして今日、お返しにあがりました、盗んだことをお嬢さまにだけ打明けて、罪を許していただくつもりです、お許し下さいませ……とそうなんです。あたしは乳母の首にとびつきました。そしてその着物をあげるといいました。けれど、乳母は受取ろうとしません。罪を許していただくためにお打明けしたので、お着物を頂戴するためではありません、といってきかないんです。でもとうとう、あたしは駄々をこねて、その着物を乳母に受取らせました。乳母はまた丁寧に、新聞紙に包み、風呂敷に包みました。夕日がもう沈んで、ぼーっとした明るさでしたけれど、乳母の顔はとても晴れやかでした。あたしは乳母の手につかまって家に帰っていきました。その時のことが、いつまでも忘れられませんの……。」
敏子は口を噤んでからも、身動きもしないで、眼を室の隅に据えていた。顔は冷たく澄んで何の表情もなかった。坂田からじっと見られてることに無関心らしかった。
坂田の眼はぎらぎら光っていた。頬には赤みがさしていた。彼は話をよく聞いていなかったらしい。何かに反抗するように身振をした。暫くして立上ると、敏子を見つめたまま一二歩近づいた。
「そんな話はもうやめましょう。然し……。」
彼は躊躇した。
「あなたを……愛していたのは本当です……今でも。」
それは愛するのか憎むのか分らない調子で、そして敏子がかすかにおののいた時には、彼はもう敏子の肩に身をなげかけてそこに顔を伏せていた。敏子は彼を押しのけようとしたが、次の瞬間、眼をとじて、彼の頭を抱きしめた……。
俺は、ただじっと見ているより外はなかったのだ。二人の応対がばかに真剣だったので、俺が差出口をする隙がなかったし、なお、俺にはよく腑におちない複雑なものが底に隠れていた。それから、その夜の二人のことについては云うべき限りではないだろう。ただ、俺の予想が全く外れたのは、翌日の坂田のことだ。
翌朝、四時半頃に、坂田と敏子とは、前夜から開け放しの窓にもたれて外を眺めていた。もう東の空は明るくなって、中天の星は淡くまたたいていた。敏子の
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