在学理由
豊島与志雄

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【テキスト中に現れる記号について】

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(例)小説4[#「4」はローマ数字4、1−13−24]
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       一

 某私立大学の法学部で植民政策の講義を担任してる矢杉は、或る時、その学校で発行されてる大学新聞の座談会に出席したが、座談会も終り、暫く雑談が続き、もう散会という間際になって、まだ嘗て受けたことのない質問を一人の学生から提出された。植民地に於ける言語というようなことが話題になってた後であるが言語から文章へとんで、現在日本の新聞や雑誌に掲載されてる多くの文章のなかで、句読点、即ちマルやテンが、ひどく軽視されてるような観があるが、それでよいものであろうか、それとも句読点はさほど重要なものではないのであろうか、と、そういう質問なのである。
 矢杉はとっさに明答もなしかね、いい加減な返事をしていると、相手の学生は、更に問題を明瞭にしてきた。――自分は半島生れの者であって、日本語にはかなり習熟したつもりでおり饒舌ることには自信を持っているが、文章を書くとなると、どうしても格調が出て来ない。そこで、文章の格調を獲得するのは、句読点を自由に駆使することに在ると考えついて、いくらかその方面で自得するところがあった。然るに、文学者の書いたものなどを読んでも、句読点の重大なこと、謂わばそれぞれの句読点は一つの文字以上の重量を持ってるということが、殆んど誰からも考えられていないような現状である。これはどういうことであろうか……云々。
 そうなると、矢杉は益々即答が出来かねるのであったが、その問題よりも、相手が半島生れの学生だということの方に心を惹かれて、その風貌を見守った。矢杉がこれまで識ってる半島生れの学生には、骨の角立ったそして鈍重な感じのする風貌の者が多く、中にごく僅か、白皙明敏だという感じの風貌の者があったが、今の相手の学生は、その少数な後者の一人で、而も、どこかとぼけたような微笑さえ浮べているのであった。
 その微笑の影に、矢杉はこちらも微笑で応じて、句読点の問題は自分にもよく分らないから文学者にでも聞いたがよかろうと、率直に答えた。それから話は、西洋文には句読点のみならず種々の意味を持つ記号が多くあるのに、日本文や諺文や漢文にそれらの記号が少いのは、どういうわけだろうかとの疑問にとび、矢杉の知人で、創作もやれば翻訳もやってる吉村なんか、文字の誤植よりも句読点の誤植の方がよほど気になると平素云っていることなどが、もちだされた。そして吉村の意見でも聞いてみないかというようなことから、矢杉は相手の学生の名前の李永泰というのを知り、また更にその顔を眺めたのだった。
 李永泰という名前は、矢杉の記憶の中にあった。数ヶ月前、植民政策についての学年末の試験の答案を見ているうち、注意を惹かれた一葉が、李永泰のそれだったのである。一体、学生の答案のうち、短くて汚いのは拙劣で、長くて綺麗なのは優良であって、而も不思議に、短いのは汚く、長いのは綺麗である。然るに李永泰のは珍らしく短くて綺麗であった。手蹟が立派なのは、半島出身者として諾けるが、句読点を整然とつけた文章で而も要点だけが簡明に書かれていた。その美事な手蹟と明晰な文体とに接して、矢杉はちょっと、答案調べの憂鬱さから救われた気がした。そして学校の教務課へ点数を報告する折、懇意な事務員と顔を合したので、別に何ということなく、李永泰の全般の成績を聞いてみた。どの科目もみな優良だった。ただ一つ不思議なのは、各学年の修了科目がごく少数で、恐らく試験を受けたり受けなかったりしたのであろうか、普通なら三年間で卒業出来る筈なのに、もう四年間も在学していて、まだ三四の科目が残ってることだった。へんな学生だと、事務員も云っていた。
 そういう記憶が、矢杉の頭に蘇ってきた。
 座談会は散会となり、矢杉は自動車を断って少し歩くこととし、李永泰と話の続きもあるようで、自然に連れだって行くことになった。他の学生達と二人の教師とは、文章の問題などには興味がないのか、或は李が始終沈黙を守っていた末に矢杉と長々話しだしたのに遠慮してか、或は道筋が異るのか、別れていってしまった。
 矢杉は李と二人で、小川町の会場からお茶の水駅東口の方へ、広い静かな街路を、少し酒にほてった身で夜気を吸いながら、ゆっくり足を運んだ。
 話題は文章のことから離れて、矢杉の好奇心の向く方へ動いていった。そして旧知の師弟の間に於けるような会話が続いた。
「君はどの科目も成績が優良なのに、どうして五年間も学校にぐずついてるんだい。早く卒業した方がいいじゃないか。」
 そんなことを矢杉が知ってるのを、李は訝りもせず、素直に答えた。
「学校にいる間に、いろいろなこと勉強したいんです。」
「沢山講義を聴いてるのかい。」
「講義ではありません。植字とか、編輯とか、校正とか、研究してみました。」
 そして彼は、或る小さな印刷所に手伝いに行ったこと、或る同人雑誌の編輯を手伝ったこと、或る知人の校正をさせてもらったことなどを話した。但しこの最後のものは失敗だった。面白くないものは校正も嫌気がさし、面白いものになると、校正はせずにただ読んでしまうのだった。
「だって君、そんなことは、学校を出てからだってやれるだろう。」と矢杉は云った。
「やれますけれど、学校を卒業すると、学費が貰えません。」
「学費が……それじゃあ、誰からか補助でも受けてるのかい。」
「父がいませんから、伯父から貰っています。」
「伯父さんなら、卒業してからでも、生活費を助けてもらえるだろう。」
「それはいけません。卒業すれば、働かねばなりません、働くとなると、勉強する時間がなくなります。」
「すると、伯父さんは、学部が三年で卒業出来ることを、知らないのかい。」
「知っています。」
「そして、早く卒業しろと云わないのかい。」
「希望しているでしょう。然し、いろいろ勉強した方がよいことも、よく知っています。」
「君の話はよく分らんよ。伯父さんにそれだけ理解があるなら、早く卒業した方が……授業料だけでも無くて済むじゃないか。」
「然し、卒業すれば、働かねばなりません。」
「学校にいるつもりで、勉強だけすればいいじゃないか。」
「そういきません、道徳の問題です。」
「道徳……そんな道徳があるもんか。卒業出来るのを、いつまでもぐずついてるのは、伯父さんに対してなお不道徳だろう。」
「私自身の道徳です。卒業して働かないのは、不道徳です。」
「学校にわざわざぐずついているのは、君の言葉で、不道徳じゃないのかい。」
「不道徳とは思いません。勉強のためです。その上、学校にいる方が、信用されます。」
「信用……何の信用だい。」
「世間の信用です。先生でも、学生の私なら、信用なさるでしょう。下宿屋とか、アパートとか、印刷屋でも、学生なら信用します。卒業して働かないと、いくら勉強してると云っても信用しません。」
「然し君、信用というものは、身分に対するものじゃなくて、人間に対するものだろう。」
「そう思います。」
「そんなら、君の話は分らんよ。」
「世間が分らないんでしょう。」
「そうも云えるが……。」
 矢杉は口を噤んだ。何やら腑におちるようなおちないようなものの中から、李の一面にはっきり触れた気がしたのだった。李の在学理由、故意に引延された在学の理由は、要するに、彼一己の道徳と対世間的策略との二つに依るものらしい。前者には、一種の自己偽瞞の気味があるが、その底に何か他のものが潜んでいるらしい。後者には、半島出身者の苦渋が見えるが、然し一般に云っても恐らく当ることであろう。そしてこの両者を合せ考える時、李の人柄のうちに或る恐ろしいものが浮んでくるようであった。然し矢杉にはそれがまだはっきり掴めなかった。ただ李のてきぱきした率直な言葉のなかに、彼の思想の力というようなものを感じた。そして、彼の顔から眼を外らして、沈思の気持に誘われるのだった。
 お茶の水駅東口に来ると、矢杉は電車に乗るために別れようとした。その二三歩あとから、李に呼びとめられた。
「先生、吉村さんへ御紹介して下さいませんか。」
 そのことを矢杉はもう忘れていた。紹介するなら手紙でも書いてやろうかと思ったが、それを止めて、聖橋の欄干の上で、名刺に簡単な文句を書きつけて、李に渡した。

       二

 李永泰は矢杉の名刺紹介で、吉村を訪れて来た。別に文学や文章に関する問題を提出するでもなく、ありふれた雑談だけで、而も多くは、吉村から聞かれるままに朝鮮の話などをし、一時間ばかりで帰っていった。ただ漠然たる興味で、吉村という存在を眺めただけのようだった。
 それから時々、彼は吉村を訪れて来た。仕事中だと、不服らしい眼色もせず、にこにこして帰っていった。隙な時には、一時間ばかり雑談していった。そして如何なる雑談の折にも、彼がはっきりした断定の言葉を吐露するのを、吉村は見落さず、次第に好感がもてるようになった。
 二ヶ月ばかりたった頃であったろうか、彼は数枚の原稿を持って来た。吉村はその短いものを、彼の前で読んでみようとした。
「お預けしておきます。あとで読んでみて下さい。」と李は云った。
 その言葉が、平素の李には不似合なので、吉村は却って好奇心を起した。
 李の原稿というのは、小説とも小品ともつかないもので、筆致にも精粗のむらがあり、文章にも所々怪しいところがあったが、大体次のようなものである。――尤も、茲に掲出するからには、作意が主で技法はどうでもよいことであるからして、吉村がそれに加筆したならば恐らくこういうものになったろうかと、その結果のものを持出すのである。
 題は「おやじ」というのである。

「おやじ」とは周囲の者たちがつけた綽名だ。――四十歳あまりの男で、頭髪はまだ色濃くて硬いが、謂わば丈夫な毛並をむりに間引かれたようで数少く、若い時は美男だったろうと思われる細長い顔立には、生活の混濁を示すたるみが深く現われ、眼だけがへんに生気を帯びている。季節ものではあるが如何にも古ぼけた帽子、すりへらした駒下駄、よれよれの銘仙の着物、そして髯はきれいに剃っていた。
 いつもの飲み屋で、酔っ払った上になお飲んでる時、十七八歳の、商店員らしいきりっとした身扮の、律儀らしい若者がやって来て、いきなり彼を引張って行こうとした。
「な、なに……死んだ!」
 声の調子だけは喫驚しているが、若者の顔を見つめたまま腰は落着いて、手から盃を離さなかった。
 若者は急ぎたてていた。
「だからさ、早く行かなきゃいけないんだよ。ふだん御恩になってるし、僕の顔もたたないよ。母さんはもう行ってるよ。」
「そこで……俺の仕度は……。」
「ちゃんとしてあるよ、家に……。さあ、父さん、行くんだよ。」
「うむ、いよいよ駄目だったかな。」
 まだ若者の顔を見つめたまま、彼の顔は一瞬間、筋力の力が失せたかのようにとほうもなくたるんで、それからこんどは急に硬ばった。
「じゃあ、行くかな。」
 考えこんだ調子で、でもすぐに立上って、皆に挨拶もせず勘定も払わず、若者に手を引かれて出て行ってしまった。
 そのことが、一同を驚かした。誰が死んだか、どんな関係の者が死んだか、そんなのはこの飲み屋にいる一同にとってどうでもよいことだったが、彼にあんな律儀そうな息子が――彼を「父さん」と呼ぶ立派な息子が――あろうとは、誰にも思いがけなかったのだ。
 日が暮れて、外が暗く家の中が明るくなり、更にその明暗の度が強く感ぜらるる頃になってから、どこからともなく集ってくる連中だ。始終一緒になる常連の間でも、誰がどこに住んでるか、どんな生活をしているか、ばかりでなく、お互の名前さえ、よくは分らず、濛とした酒気と煙草の煙のなかで、ただお互の顔付だけが符牒だ。その、彼の符牒に、あの若者の息子はどうもつかなかった。
 ――本当の息子だろうか?
 
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