家なもんですから。」
そして彼は無心なとも云えるような笑みを浮べた。
然るに突然、彼はぶしつけに云いだした。――あの原稿はもう不用だから、先生に差上げる。書きなおして使って下すってもよい。その代り、全く別なことだが、三十円かして下さい。至急入用があって、困っているので、助けて下さい。お手許になければ、雑誌社に手紙でも書いて下さい。使は自分がする……。
吉村はちょっと呆れ返った。
「そんなに急なことを云ったって、僕の貧乏なことくらい分ってるだろうじゃないか。」
「私は急ぐんですけれど……。」
「まあ二三日待ち給え、考えておこう。」
そんなことで、李は帰っていったが、三日後にまたやって来て、三十円の催促をした。
吉村は更に呆れて、もう二三日待てと云って帰した。
三日後に、李はまたやって来た。吉村も諦めて、幸いそれくらいの持合せはあったので出してやった。
李は子供のような喜びを顔に浮べて、帰っていった。
それから二十日間ばかり、李は姿を見せなかったが、或る夕方、威勢よくやって来て、是非とも一緒に食事をしに出かけてくれと頼むのだった。
「あの三十円はたいへん役に立ちました。先生に返したって、どうせ使ってしまうんでしょうから、お礼のつもりで、私に食事をおごらせて下さい。先生の好きなところで、余り高くないところなら、どこでもよいんです。」
吉村はもう李の本心を信じかねるような気持になっていたが、李があまりむきになって誘うので、散歩のつもりで外出した。
歩きながら、李はこんなことを云った。――あの三十円は、実は、例の「おやじ」の息子が、「おやじ」の新旧の飲み代に困ってるので、貸してやった。然し、考えてみると、ああいう思想は、金がかかって、貧乏人には困る。それかと云って、実践の裏打のない単なる抽象的な思想は、何等の価値もない。金のかからない実践可能な思想が必要なのだが、それが、見出せないのが悩みだ。そういうことから、いろいろ考えた末、自分自身の方も、もう大学部に五年間もいるんだから、今年きりで卒業してやろうかと思っている。学校にいる方が、いろいろ便利ではある。第一、先生にしたところが、自分が大学生だから三十円貸してくれたんで、学校を出てぶらぶら遊んでいたのでは、とても信用してくれなかったろう。然し、学校を出ても、伯父から多少の補助は受けられるし、自分でもいくらか
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