朗かに笑った。――君たちは葷酒山門ニ入ルヲ許サズということを、知っているか。葷酒が山門にはいったら、すべて汚れてしまう。だが、山門の外でなら、酒を飲もうと、不浄を味わうと、堕落にはならない。そうした理屈だ。君たちも、山門の貞操観があったら、男を山門の中に立ち入らせてはいけない。
猥談めいたことだが、それを彼女の言葉に飜訳すれば、猥談とはならない。
「ねえ、あんたとは、いつまでも、清くしていたいの。」
芸者あがりの彼女に、いつから、そんな信念が出来たのであろうか。或はそれも、私に対してだけのことだったのであろうか。とにかく私は、そのばかげた山門の壁に頭をぶっつけた。そして山門外で、私も彼女も、如何に恥知らずの快楽に耽ったことか。彼女は私を弄び、私も彼女を弄んだ。それでも、彼女に言わせれば、清い交りだった。
私は布団の上に坐って、やたらに煙草をふかした。腹の底から湧いてくる憤怒と肉にきざみこまれてる愛着とが、一緒によれ合って燃え上ってくる。もし彼女がそこにいたら、私は彼女に飛びかかって、どんなことをしたか自分でも分らない。
だが立ち上ると頭がふらつき、足もふらついていた。まだ酔ってたのであろうか。水をまた飲んだ。そして室を出た。それは奥の室だった。廊下伝いに台所の方へ行き、戸口の締りを探していると、はおった丹前の裾を引きずって政代が出てきた。
戸外の明るい陽光が、欄間の硝子からさしこんでいた。彼女は眩しそうな眼で、私の方を伏目がちに眺めた。その眼にまた深い陰が宿った。――私はふしぎにもその時、別な眼を思い起した。北京で、友人と同居して、あちらの女中を一人使っていたが、その家から引き払う時、前夜、私は酒に酔って、その女中の手を握った。彼女は何か考えるように、黙って眼を伏せていたが、やがてその眼に、深い陰が宿ってきたのだった。それが今、政代の眼にそっくり重なり合ったのだ。
「どうしたの。」
「もう帰ります。」
「御飯もたべないで。」
「今ほしくありません。」
「お酒は。」
「またあとで。」
なんと平凡なそしておずおずした再会だったろう。彼女は戸口を開けてくれ、私の手をかるく握った。私はそこにある。ぺしゃんこの[#「そこにある。ぺしゃんこの」はママ]下駄をつっかけて、外に出た。冷たい空気のなかに、朝日の光りが強く、目まいがした。
私の室は開け放しのままだった。布団を引きずりだして、もぐりこんだ。雑多な想念を無理に逐い払って、ひたすらに眠った。
正午近くに眼をさますと、いつのまにかお留さんでも来たと見え、枕頭に大きなお盆が置いてあった。銚子が二本にちょっとした摘み物が添えてある。私は眉根に皺を寄せたが、それでも酒に手をつけた。
親切、親切……。私は杯を置いて、コップを取り出し、冷酒をあおった。親切……昨夜のあれも、彼女の親切から出たことなのであろうか。さすがにそれを肯定する勇気はなかった。ただ惨めだった。私は酒を飲み干し、更に焼酎をひっかけた。それから頭を冷水で洗い、詰襟の作業服をつけて、外に出た。
建築社は休むことにして、製材所の方へ行った。円鋸や帯鋸が木材を自由にたち切るのを、一時間ばかり眺めた。それから野原の方を歩き廻り、河の土手をぶらついた。――無駄ではなかった。想念は次第にまとまりかけてきた。
葷酒をぶらさげて、山門の前をぶらつくなど、愚劣なことだ。葷酒なんか大地の上にぶちまけてしまえ。山門なんか、寺院のそれでも、女性のそれでも、蹴破ってしまえ。だが、政代のあの純粋親切というものが、どうして、私の心をこんなにしめつけるのであろうか。彼女の眼に宿る陰など、もう問題でないのに、その親切だけが、どうして心をしめつけるのであろうか。強くなれ、強くなれ。彼女も畢竟、私にとって異邦人に過ぎないではないか。
河の土手で凧をあげてる子供たちと、私はしばらく一緒に遊んだ。それから家に帰った。銚子などはもうお盆ごと、持ち去られていた。
私もすぐその足で、田岡政代の家へ行った。台所口から声をかけておいて、庭の縁側の方に廻った。皮肉な態度に出るつもりだ。
「昨日は、たいへん御馳走になって、すみませんでした。ちょっと、お礼に来ただけですから……。」
室におあがりなさいとすすめるお留さんに、私はそう言った。
「まあ、お礼だなんて……二日酔いのせいじゃありませんの。」
「お礼はお礼です。もう酔ってやしませんよ。」
私はもはや惨めな思いはしなかったが、負けだという気がした。少しも皮肉にならなかったのだ。
政代は黙っていたが、なにかしきりに目配せしてるようだった。お留さんが台所へ立って行ったすきに、縁側にでてきた。
「なにか怒ってるの。」
「怒ってなんかいません。」
「でも……。」
「なまけたのを後悔してるだけです。」
「そう。御
前へ
次へ
全6ページ中5ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング