、ただ内にあるものだけが籠ってるのだ。それが訴えるように、私の方へにじり寄ってくる。と同時に、彼女の顔の小鼻の両脇にある溝が、片方だけ深く刻まれてゆく。泣いちゃいや、と私は心の中で叫び、つぎには、東京に行っちゃいや、なに行っちまえ、と一緒に呟いた。――そのとき、私自身、不覚にも眼に涙をためていたのだ。すっかり酔っていたのであろうか。
 彼女の手が私の手をしかと捉えた。私はハンカチで眼の涙を拭き、杯に酒を受け、そして微笑んだ。
「ばかね、泣いたりして。」
「あなただって泣いたよ。」
「わたし、泣かないわよ。ただ酔っただけ。」
「僕も酔っただけだ。」
 炬燵布団に顔を伏せていると、頭の中がふらふらして、それからじいんと沈んでゆく。その淵から飛びあがるようにして、顔を挙げ、微笑んで、また飲んだ……。

 とろとろと眠っただけの気持ちで、私は眼を開いた。まるで見馴れぬ室なので、はっきり眼がさめた。電気雪洞の二ワットの淡い灯が、ぼんやりともっている。神代杉の天井、欄間や床の間、掛軸に活花……。枕頭に水差と煙草盆があったので、水を飲み、煙草を一吸いした。それから着物を着代えた。それまでははっきりしてるのだが、それから先は昨夜のことと混乱してしまうのである。
 つぎはぎだらけの粗末極まる私の襯衣がきちんとたたまれて乱籠にはいっているのに、私はたまらなく惨めな気持ちがした。彼女に連れて来られて、着物をぬがせられるのにちょっと逆らったようだが、ぬいだ襯衣類を彼女が丁寧にたたもうとするのを、私は引ったくって投げやったことを、はっきり覚えている。それでも彼女は、一々たたんでしまったのだ。もし私が立派な襯衣をつけていたら、その好意を安んじて受けたろう。――そのあと、彼女は長襦袢姿で、私のそばにすべりこんできた。
 いつのまに、どこへ、彼女は行ったのだろう。もう枕も、何の跡かたも、そこにはなかった。然し、あれは夢ではなかったのだ。
 二枚重ねのふっくらした布団の中で、そんなのに久しく馴れない私は体をもてあつかいかねた。ばかりでなく、如何に残酷に弄ばれてしまったことか。彼女はしばしば、くくくくと忍び笑いをしたようだった。
 彼女は或る坊さんの話を、私に囁ききかせた。――その坊さんは、花柳地の料理屋などによく酒を飲みに来た。彼女もひいきになった。この節はお坊さんも開けなすったのね、と言うと、彼は
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