祭りの夜
豊島与志雄

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)転手《ねじ》

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「魚+昜」、360−24]
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 政代の眼は、なにかふとしたきっかけで、深い陰を宿すことがあった。顔は美人というほどではないが整っていて、皮膚は白粉やけしながら磨きがかかっており、切れの長い眼に瞳がちらちら光り、睫が長く反り返っていて、まあ深みのない顔立なのだが、ちょっと瞬きをするとか、ふと考えこむとか、なにかごく些細なきっかけで、眼に深い陰が宿るのである。以前は芳町の芸妓で、戦争になって花柳界閉鎖後も、政界に暗躍してる八杉の世話になり、東京近くのこの町にのんびり暮している彼女のこととて、眼に宿るその陰に、特殊の意味があるのではない。感傷とか焦燥とか慾望とか、そういうはっきりした色合があるのでもない。謂わば、一片の雲が湖水に影を落すように、睫がその影を眼の中に落すのでもあろうか。眼の中がふーっとかげってくる。そのかげりが、暗くはないが、へんに深々とした感じで、人の心を誘い込む。三十五歳ほどの女性の肉体の魅惑が、その底に潜んでるとも言える。――そのような印象を、私は受けた。
 いつ頃からのことなのか、考えてみても、私には分らない。初めは全然気付かなかった。だが一度気付くと、二度三度と、彼女の眼の中の陰は次第に深くなってゆく、そんな工合だった。そして今では、底知れぬ深いものとなって、私を引きずり込もうとしているようでもある。
 それも然し、言葉のつぎほや沈黙のあいまの、ごく暫しの間のことで、拭うように消えてしまうのだ。
「今日は、ゆっくり、北京の話を聞かしてね。」
 その眼はもう平明で、笑みをさえ含んでいた。
 だが、なぜまた北京の話なのだろう。いつもいつも北京の話ばかりだ。もっとも、政代の朋輩で、北京の料理屋に行ってた者があるとか。戦争前のことで、二三度便りがあったきり、こちらから手紙を出しても返事は来ず、それきり今に至るまで、全く消息が絶えてしまってるそうである。然し私は、北京には三年ばかりいたきりで、大して面白い話を持ち合わせてもいない。紫金城、万寿山、天壇、公園、市場、芝居、槐の並木……そんなことばかりで、それももう
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