ない、とも云った。誰にそそのかされて行ったのか、とも云った。金はどこから持ち出したのか、盗んだのか、とも云った。嘘をついて瞞かしたんだから、初めから何か目論見があったに違いない、とも云った。隠し立てをして云わないようなら、外に逐い出してしまう、交番につき出してしまう、とも云った。皆がどんなに苦労してるか分ってるか、とも云った。そして、父が長年造兵に出て苦労したものも、兄がよそに奉公してるのも、上の姉が辛い勤めをしてるのも、次の姉がカフェーなんかに出てるのも、母が眼の悪いのもいとわず竹楊子の内職をしてるのも、みんな私のためだそうだった。――が私は茲に母の揚足をとるつもりではない。後で分ったことだが、母が日歩の金なんかを内々廻すようになったのも、私が少し学校が出来るものだから、私だけには立派に学問をさせたいという腹もあったらしい。
私は寝間着一枚で震えていた。母に殴られた頭や頸筋が痛むのを心で見つめていた。そして、カフェーへはただ行きたかったから行ってみた、金は自分で持っていた、とそう簡単に答えたきり、何を云われようと黙りこくっていた。
姉も母に代っていろんなことを云った。それからまた母が怒り出した。私はも一度殴りつけられた。
そしてるうちに、皆黙りこんでしまった。しいーんとなった。私は云うものか云うものかと思っていたが、気が弛んできた拍子に、お清のことが頭に映ってきた。
私はふと吃驚して顔を挙げてみた。母も姉も一度だってお清の名を口にしなかった。当然そこに持出される筈のお清のことが、皆から忘れられていた。
私は前後の考えもなく、勝ち誇ったように云ってやった。
「お清ちゃんに行ってもいいかと云ったら、いいって云うから行ったんだよ。」
母と姉とは眼を見合せた。それから母は私を見据えて云った。
「お銭もお清ちゃんから貰ったのかい。」
「うむ。」と私は答えた。
「嘘じゃないだろうね。」
「嘘じゃないよ。」
母は何だか少し安心したもののようだった。姉が得意そうに母の顔を見た。私には訳が分らなかった。
けれども、その時私は、そんなことは一度に消し飛んでしまうほど驚いた。父がじいっと私を睨みつけていた。髯の伸びかかった兇悪な方の顔付で、眼を底光らせて、探るように見つめていた。私は胸の底まで冷りとした。
その眼付が後まで胸に残っていた。殺されるかも知れないという気がした。私は父が恐ろしくなった。
私は父を恐れたために父を観察するようになった。するとやがて、父の心の秘密な動きが分ってきた。
父は時々山本屋から古釘を持ってきては、それを鉄板と金槌とで真直になおしていた。その音を母が煩さがるので、よく裏口でやっていた。
そういう時の父や、また酒を飲んでる時の父は、職に離れた如何にも気の毒な老職工だった。また炬燵にしがみついてぼんやりしてる時の父は、世間に対する不平と諦めとの中にある廃残者だった。けれども、そういう父の中から、時々、電気にでも触れるような不気味なものが覗き出した。炬燵によりかかりながら、じっと空《くう》を見つめて、一心に幻を追ってるような眼付になることがあった。それが、お清に出逢うと更にひどかった。お清の身体のどこといわず眼の落ちたところを、しつっこく見つめていた。その視線がじっくりと、お清の身体に絡みついてゆくようなのに、私はぞっとした。
お清自身は平気らしかった。少くとも平気らしく振舞っていた。一寸挨拶をしておいて、澄ました顔でつっ立っていた。以前の通りよくやって来た。お三代に物を持ってきてくれたり、朝は大抵お新を誘いに来た。私に対しても元通りだった。
「あんた、すっかり云っちゃったのね。お金を返されて困ったわ。」
あれから最初に顔を合せた時に彼女はそう云った。
「またカフェーに遊びに来ないの。来ちゃいけないの。」
二度目にはそう云った。
「カフェーなんかつまんないでしょう。じゃあ、あたしが隙な時、あたしの室へいらっしゃい。」
三度目にはそう云った。
然し私は、彼女と話をするのが憚られた。どこからか父が恐い眼付で覗いてるような気がした。その上、カフェーへ行ってからは、彼女の魅力がひどく薄らいでしまった。
「何か怒ってるの。ああ、紙風船を買って来ないから……。」
そう云って彼女はやさしく笑ったこともあった。
だが、彼女はいつまでも私に紙風船を買ってくれなかった。私のことなんかは殆んど念頭に置いていなかったらしい。次第に素気なくなっていった。
その代り彼女は、父の恐ろしい眼付の前に大胆になっていった。
私は或る日曜日の朝、彼女と父との様子を裏口に見た。父は古釘を叩き止めて、金槌の工合をでも見るような風に、その頭と柄とを両手でぎりぎりやっていた。が眼は、前方へ下目がちに錐のように鋭く注がれていた。そこに、一二尺のところに、お清がしゃがんでいた。そして、冷たい感じのする頬辺をして、釘箱の中をかき廻しながら、この釘は本当に真直だとか、これはまだ少し曲ってるとか云っていた。父も口の中で何とか答えをしていた。その二人の言葉は、心がまるで別なところにあるような調子に見えた。そのうちにお新が出ていった。お清は立上って、高慢ちきにつんと空を仰いだ。それが彼女の混血児顔にふさわしかった。さも何かを――父を――軽蔑しきってるような様子だった。
私は流し場で筆を洗う風をしながら、障子戸の破け穴から隙見していたが、父が一寸振向いたのでぎくりとした。父のその眼付では、何でも素通しに見透されるような気がした。
そういう時の父と、平素のぼんやりしてる時の父とが、別々のものとなって頭に映るのが、殊に私は不安だった。大きな鉄の扉をでも見るようだった。平素一方を向いてるかと思うと、ぎいーっと音を立てながら他方へ向いてしまう。もう何の余裕もなかった。
父の酒の量は俄に増していった。朝から酔っ払ってることが多かった。縁の下の酒甕だけでは間に合わなかった。外から買われることが多くなった。勿論それ迄だって、人の注意を避けるためだったろうが、酒は外から買われていた。それが俄に殖えていった。母がいくら云っても父はきかなかった。しまいには焼酎が買われるようになった。
焼酎を沢山飲んだことが、父の頭にはいけなかったらしい。眼瞼がたるんで、眼付が据ってきた。
お新が感冒の心地でカフェーを休んでると、或る日お清は、午過ぎからどこかへ出かけて、晩遅くなって戻って来た。そして、殆んど毎朝寄ってるくせに、大きな果物籠を下げてわざわざ見舞に来た。いい御馳走を食べたか酒でも飲んだかして、ぽーっと上気していた。
父は焼酎に酔っ払っていた。がお清が来ると炬燵から起き上って坐った。
お新は感冒と云っても大したことではなかった。
母はお清の見舞物に恐縮していた。そして皆で一時間ばかり話をした。ただ取留めもない世間話だった。お清は愉快そうに一人ではしゃいでいた。混血児顔を消してしまうあどけない笑いが、始終口元に浮んでいた。
父は酔ってただぼんやり坐ってるだけというように見えた。然しその眼は時々、いつぞや私が裏口で隙見した時と同じような鋭さになって、お清の顔や手足や胴体など、どこといわず落ちたところに、ぴったりくっついていって長く離れなかった。その方へまた私は、見まいとしてもじりじり気が惹きつけられていった。父が眼をつぶって顔を外らすと、私はほっと息がつけた。がそれでもやはり、父の心全体がお清の方にねじ向いてるのが感じられた。
お清は勿論父の眼付を感づいてるに違いなかった。上気してたような顔が次第に蒼白くなってゆき、あどけない笑いが消え、額のあたりが冷たそうになっていった。そしてしまいには反抗的な態度に出た。爪の色がどうだとか云ってしきりに指先を弄んだ。その手をだらりと炬燵の上に投げ出した。膝を崩してしどけない坐り方をした。わりに毛深くて困ると云って、実は毛の少いまるっこい二つの腕をまくってみせた。彼女の皮膚は非常に毛穴が小さく肉のぼってりした感じで、見ようによってはいくらか不気味だった。
それらのものを一々、父の執拗な眼付が吸い取っていった。
お清は時々かすかに身震いをして唇を噛んだ。今にも彼女が喚き出しはすまいかと思って、私はびくびくしていた。
その時、話はだんだん内証事に落ちていって、母はお清がつけ廻されてる男のことを持ち出した。その男を刑事と間違えて酒のことで心配したなどと云った。
「どうしてあんなに執念深いんでしょう、嫌になっちまうわ。」とお清はぼんやり云っていた。「だけど、あの男ばかりじゃないわ。あたし毎晩泥棒につけられてるような気がするのよ。夜中に家のまわりによく足音がして、おちおち眠られもしないことがあってよ。」
「それもやはりあの人じゃないかしら。」とお新が云った。
「そんなことないでしょう。……あたし何だか気味が悪いから、近いうちに引越そうかと思ってるの。」
それから話は家賃や室代のことになった。
その、お清が殆んどでたらめに云ったことが、強く父の注意を惹いたらしかった。父はぎくりと頭をもたげて、正面にお清を見つめ初めた。皆がその場に居合してることを忘れたかのようだった。お清は少し身を引いてもじもじしだした。混血児風の顔が石の彫刻のように見えた。そして、話半ばに突然帰っていった。
母と姉とは、彼女から貰った立派な果物を持出して、いろいろ品評し感心し合った。
お清に対する父の凝視には誰も気付かないらしかった。五十を越した失職職工がお清に夢中になろうとは、思いも寄らぬことだったに違いない。
然し私は父を責めたくはない。当時私はただ恐怖と不安とだけしか感じなかったが、今になっていろいろ考えてみると、父に同情したくなってくる。長年やり続けてきた労働を突然奪い取られてしまい、古釘なんか叩いて僅かに生理的なごまかしをつけ、その上、もう世の中に用がないという気持から、酒にばかり浸っていたところへ、何かの機会から若い女の肉体に心惹かれてゆく……。そこにはどうにもならないものがあったらしい。その上父は、元気こそ衰えていたが身体はまだ丈夫だった。私は父の心の動き方の特殊な点を考えては、父にも仕事さえあったら……とそう思わざるを得ない。寺田さんの云い草ではないが、人間には死ぬまで仕事を与えるがよいのだ。仕事を奪うことは残酷であり罪悪である。
それにしても、私は父の執拗な眼付をこまかく見て取ったことに、一種の羞恥を感ずる。私がもしお清に対して全然性的無関心でいたら、ああまで深く父の眼付が私の心に刻みこまれはしなかったろう。
私はただ胸をどきつかせてばかりいた。漠然とした不安と恐れとに押っ被されて、出来るだけ身を隠しながら見てるより外に仕方がなかった。
お三代はひどく低能だった。その代りひどくおとなしかった。そして皆から無視されがちだった。お新は夜十二時過ぎでなければ帰って来なかった。それを母は眼をしょぼしょぼさせて待っていた。母は気性はあくまでも確かだったが、眼は益々悪くなっていった。いつも目脂《めやに》をためてじめじめした眼付をしていた。夜は何も出来なかったけれど、昼間はせっせと内職の竹楊子を拵えていた。その惨めな仕事に時々、父のカンカンいう金槌の音が織りこまれた。が大抵は、父はもう酔っ払ってばかりいた。そして炬燵にねそべっていて、不意に飛び起きては眼をぎろぎろさしていた。
不幸なことは、お清につき纒ってる例の男が、益々執念深くなってゆくようだった。夜遅く父がむっくり起きるのを私は見たことがあった。ただ、父は初めほど戸締りを厳重にしなくなった。というよりも寧ろ、戸を開け放しておきたがってるかのようだった。私は一度も見たことのないその男に対して、さまざまの空想を逞うしながら、幽鬼にでも対するような恐怖を覚えた。
お清とお新だけが、凡てに無関心に伸び伸びと振舞っていた。大抵連れ立ってカフェーに出かけていった。が気のせいか、お清は次第に醜くなるようだった。
或る朝、顔を洗ったばかりの彼女を見て、私は吃驚した。混血
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