こかへ行ってしまうんじゃないかという気がしたのである。
世の中には、何か特別なことをしなくても或るはっきりした印象を残すような、そういう人がいる。彼も恐らくその一人だったろう。何にもはっきりしたことを云いも為しもしないで、ごく些細な動作や身振や言葉遣いなど全体の感じで、それと人に納得させるのである。何か一つの事柄についてばかりではない。彼に対する私達一家の尊敬がやはりそうだった。父の仲間のうちでただ彼だけに対して、さんをつけて寺田さんと私達が呼ぶようになったのも、彼が何か優れた能力を見せたからでもなく、比較的知識が広いからでもなく、普通の労働者と少し違った言葉遣いをするからでもなく、自然と人柄の感じから理由なしにそうなったのである。職工達の間に彼が声望を持っていたとすれば、それもやはり理由なしに自然とそうなったのだろう。
彼が帰っていってから、暫く空虚な沈黙が続いた。私は堪まらなくなって云った。
「寺田さんは、どっかへ行ってしまうんじゃないかい。」
母はぎくりとしたように顔を上げた。
「ほんとにそうかも知れないねえ。だがまさか……。」
「なあに行くもんか。寺田さんは解雇されやしねえ。」
父は一人で反対して、残りの酒をまだ飲んでいた。
が実際、寺田さんはその夜限り行方をくらましてしまったのである。
翌日、寺田さんの室が、戸が閉ったままになってるので、私は一人気を揉んでいた。すると晩になって、隣家のお上さんが慌ててやって来た。手に葉書を一枚持っていた。
母は顔色を変えて父のところへ飛んできた。隣家のお上さんも上ってきた。葉書は寺田さんからのものだった。――此度都合で旅行することになった、もう帰って来ないから、室は自由にして欲しい、残してる蒲団や書物を、少いけれど今月分の宿料の代りに処分して欲しい……とただそれだけの文面だったらしい。
「ふだん御懇意だったようですから、御心当りはありませんかと思って……。」
お上さんはさも当惑そうな顔をして、遠慮しいしいそんな風に云い出していた。そして、残ってるのは薄い蒲団と五六冊の書物とだけで、とても宿料なんかに追っつきはしないことを、遠廻しに云ってから、信玄袋が一つあったのだが、いつのまに持ち出したのかしらと父母の顔を探るように見比べていた。
それが母の癪に障ったらしかった。母は箪笥の隅の抽出から、一枚の紙を取出して見せた。
「わたしの方もこの通りですよ。」
寺田さんの五十円の借金証書だった。
父は二人の女の話を聞きながら、堪え難いような顔付をしていた。眉根に深い縦の皺を刻んで、顔の皮膚をくしゃくしゃにして、畳の上を見つめていた。その時くらい私は父に同情したことはない。全く穴でもあればはいりたいような様子だった。ところが、ふいに調子が一変した。
「やかましい、いいじゃねえか。出来てしまったこたあ仕方がねえ。」
女二人は突然の叫び声に飛び上るような身振りをした。
「寺田さんはそんなことをする男じゃねえ。」
母は坐り直した。
「おや、そんなことをする男じゃないんだって……それじゃあ、これはどうしたんだよ、どうしたっていうんだよ。」
そして証文と葉書とを父の前へつきつけていた。
「いつまでもそのままにしとく男じゃねえってことさ。」
「へえー、時さえ来りゃあ、二倍にも三倍にもして返してくれるというんだろう。ばかばかしい。」
父と母との見幕に驚いて、隣家のお上さんはそこそこにして帰っていった。――だが、全く厄介な目にあったのは彼女である。彼女の方では訴えも何もしなかったのに、後で警察の方からわざわざやって来て、寺田さんの書物はそっくり押収してゆき、布団は当分保管を命じていったのである。
寺田さんの逃亡は、私達に大きな打撃を与えた。
父はひどく落胆しきって、益々一人で憂欝そうに考え込むようになった。父が寺田さんに何を期待していたかは私には分らないが、今になっての私の想像を許さるるならば、寺田さんがもし労働運動に成功していたら、父は容易く王子分廠に就職出来たかも知れないように思われる。或はさほど深い関係がなかったにもせよ、寺田さんが逃亡したということは父の気持の上では杖を失ったようなものだったろう。
「寺田さんは屹度いつかこっそりやって来る。」
父は後々までそう云い続けていたし、そう信じきってるらしかった。
母は寺田さんを許していいか憎んでいいか、自分でも分らないような風だった。何かにつけては五十円の証文のことをもち出して、口汚く罵りながらも、すぐその後で、いい人だったとか恐い人だったとか云って、溜息をついていた。
私は何だか、誰に向ってともなく無性に腹が立った。寺田さんが母や隣りのお上さんに金銭上の迷惑をかけていったことが、寺田さんの方の不正ではなくて、或る大きな漠然とした……云わば社会の不正であるように思われた。それに私は、寺田さんが置いていったという書物がほしくてたまらなかったのだが、それをみな警察に持って行かれたと聞いた時、憤慨の気持は一層高まった。私は不安の余り虫眼鏡を戸棚の隅に隠しながら、寺田さんの蒼白い顔を思い慕った。
寺田さんは幼い私の性情に最も感化を及ぼした人の一人だった。思い出はいくらもある。そしてこの「回想記」の主題と密接な関係があるのは、後年横浜で出逢ってから以後のことである。その時彼は、共産主義とトルストイ流の労働主義とをこね合した思想の把持者だった。がそれらのことは後に述べるとして、茲にはただ一つ、私が自分でも知らずに彼を喜ばした※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]話をつけ加えておこう。
同じ年の秋の末だった。或る爽かな晩、私は寺田さんと二人で外を歩いていた。どうして二人で出歩いたかは今覚えていない。
両側の軒並に切り取られた長い空に、星が実に綺麗に輝いていた。薄暗い裏通りだったので、その星空が河を逆さに覗き込むようで殊に美しかった。
寺田さんは空を仰ぎながら、立ち止ったり歩き出したりして、私に星の名を教えていた。天の川を中心にあちらこちらへ飛んでいくので、私にはどれがそれだかよく分らなかった。そんな星の名前なんかより、それを指し示してる寺田さんの右手の、不恰好に長いような感じのする方へ、私の注意は向きがちだった。それは変に悪魔的な手だった。今にもぬーっと伸び出して天まで届きそうに思えた。
「昔は、ああいう星が動いていて、東から西へぐるぐる廻ってるものだと思われていたんだよ。ところがだんだん調べてみると、動いてるのはこのわたし達の地球で、星の方はじっとしてることが分ってきた。何万年も何億年も、あの限りなく広い空の真中に、いつまでもじっと一つ処に浮いているんだよ。或は動いてるのかも知れないが、まだそこまではよく分らないから、今のところ動かないものとしてあるんだ。」
星を指してる寺田さんの手と、永久に大空の一つところに浮いてるという星とに、私はすっかり気圧されてしまって、むりに反抗してみたくなった。
「だって……だって……星は動くよ。」と私は呟いた。「僕が歩き出すと、星がついて来るんだ。」
そして私はとっとっと歩いてやった。一寸間があった。と突然あはははと高く笑う声が聞えた。そしてすぐに、固い感じのする手で肩をしっかと捉えられた。私は冷りとした。
「あははは。」と寺田さんはまだ笑っていた。「お前は面白いことを云うね……。なるほど、星は動く……わたし達についてくる……。」
もし他に通行人がなかったら、寺田さんは私の両肩を抱きしめたかも知れない。
私は寺田さんを怒らしたように思っていたので、その如何にも愉快でたまらなそうな晴々とした顔を見て、きょとんとしてしまった。寺田さんは私の肩になお右手を置いたまま、左の短い感じの手で※[#「臣+頁」、第4水準2−92−25]のしょぼ髯をしごきながら、眼をくるくるさしていた。
「星がついてくるか……うむ……。」
その言葉が何でそれほど寺田さんを感心さしたのか、私には分らなかった。――今でもまだよく分らない。
ただ、実に綺麗な星空だった。
大晦日の晩寺田さんの逃亡が分ったので、それからすぐに引続いた正月は、私達にとっていつもほど晴れやかなものではなかった。その上父までが職を離れたばかりのところだった。
「俺はもう世の中に用のねえ身体だから、この正月は家にすっこんで暮そう。」
「何を云ってるんだい、縁起でもない。……松が過ぎたら、元気を出して仕事でも探しに出歩いてくるがいいよ。」
父と母とがそんな風な応対をしてるのを見ると、私は頼り無いような気持になった。それでも、食べ物の方はいつもより御馳走があるようだった。
そのうちに私達は、或る形態《えたい》の知れない圧迫を外部から感ずるようになった。
隣家へ警察の者がやって来て寺田さんの書物を押収していったのは、十日過ぎのことだった。それから間もなく、私の家へも刑事がやって来て、寺田さんのことを――私達と懇意になった初めの頃からのことや寺田さんの平素のことなどをこまかく聞き訊した上に、もし寺田さんが姿を見せたらすぐに届出るようにと云い置いていったそうである。
「お前は何を誰から聞かれようと、知らない知らないと、それで頑張り通すんだぜ。」と父は私に云った。
「そうだ、うっかり何か饒舌っちゃいけないよ。」と母も云った。
それから母は、台所の縁の下の酒甕のことをしきりに気にしだした。そんなことじゃないと父が云っても、母は始終その方へ気を取られるらしく、姉とくどくど相談してることもあった。それでも酒甕はやはり元のままで、沸々と新らしい濁酒を醸し出していた。
大人って馬鹿なものだな、何をびくびくしてるんだろう、とそんな風に私は考えていた。
或る日私が学校から帰ってくると、途中で、汚い身装《なり》をした労働者風な男が、にこにこ愛相笑いをして近づいて来た。
「あなたは西村さんの坊ちゃんじゃありませんか。」
私は喫驚して立止った。そんな丁寧な口を利かれたことは滅多になかったのである。
「西村さんの坊ちゃんでしょう。」
「そうだよ。」と私は多少得意になって答えた。
「そんなら、あの……寺田さんをよく知っていらした……。」
男は腰を低く屈めながら私の顔を覗きこんできた。
「そうだよ。」と私は答えた。
「では、寺田さんの居所《いどころ》を教えてくれませんか。わたしはもと、寺田さんと一緒に、子分同様に働いてた者ですが、急に用が出来て、寺田さんを尋ね廻ってるんです。何処へ行っても分らないから、あなたのことを思い出して……ええ、寺田さんから聞いていたんですよ……あなたなら御存じだろうと思って、家の方へ尋ねていくと、学校からまだ帰らないというんで、学校へ行ってみようと思ってたところです。……ねえ、坊ちゃん、寺田さんは今、何処にいるんです。」
「僕は知らないよ。」
私は相手の様子を見調べた。初めから何だか変な奴だなという気がした。かねて聞いてたところでは、職工とそうでない者とは、手を見れば、殊に手の節を見れば、一番よく見分けがつくそうだった。が生憎その時男は古い外套のポケットに両手をつっ込んで、両肩をねじり加減に前方へつき出していた。その恰好は如何にも見すぼらしい職工風だった。然し、妙に鋭い眼付と耳の前の黒子《ほくろ》とが何だか[#「何だか」は底本では「何だが」]変だった。職工にだって耳に黒子のある者はいくらもある筈だが、その男の黒子はどうも職工らしい感じではなかった。
「じゃあほんとに知らないんですか。」
男は私の眼をじっと見つめてきた。
「本当に知らないよ。」
「そいつあ、弱ったなあー。」
男は何と思ったか、五十銭銀貨を一つ取出して、強いて私に握らした。
「わたしが寺田さんを探し廻ってることは、誰にも……家の人にも、内証にしといて下さいよ。警察にでも知れると一寸厄介ですから。……では、坊ちゃんは本当に知らないんですね。」
「ああ知らないよ。」
「弱ったな。」
男はなお暫くもじもじしていたが、溜息をつきな
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