一つ不安なのは、皆が赤の他人で而も互に識り合いだという変な矛盾した感じだった。
 痩せたハイカラな男とお清が暫く話をして私の方へやって来た時、私は尋ねた。
「もう帰ってもいい。」
「ええ、いいわ。こんどまたいらっしゃい。」
 そして彼女は私の方へ屈みこんで、一円だけ置いてゆくように云って、つと身を退いた。私は立上って、わざと様子ぶって五十銭玉を二つ卓子の上に置いた。そしてぷいと飛び出してやった。
 ぞーっと寒けがした。街路が薄暗く思えた。私はぶつぶつと唾を吐いた。形態《えたい》の知れない反抗心が湧き起ってきた。前に考えたことがみなひっくり返ってしまい、皆から馬鹿にされ、恥しい目に逢った、とそんな気がした。
 寒い北風を真正面に受けながら、戸崎町の自分の家まで歩いて帰った。
 母から何やかや問いかけられても、碌に返辞もしないで、布団を被って寝てしまった。
 父は酒に酔っ払って炬燵で居眠りをしていた。お三代がその傍で千代紙を折っていた。
 私はひどく疲れていた。背骨まで、ぐにゃぐにゃになってるような気がした。熱に浮かされたような心地で、眠っていった。
 ところが、それからが大変だった。
 私は夜中にいきなり母から引きずり起された。
 母は歯をくいしばってぎりぎりやっていた。父は薄暗い眼をしていた。お新が私を睨みつけていた。
「お前は今日、何をしたんだい。」母は逆せ上って舌が廻りかねてるようだった。「餓鬼のくせに、わたしに嘘を云って、カフェーなんかに遊びに行って……何だと思ってそんなことをしたんだい。」
「そして一円払っていったんだよ。」と姉がつけ加えた。
「そのお銭《あし》を、どこから持っていったんだい。……さあ云ってごらん。云えないか。云えないだろう。この野郎……。」
 返辞をする間もなく、私はそこに叩きつけられてしまった。力任せに二つ三つ殴られた。
 殴ってしまうと、母は少し気が静まったようだったようだった。
「さあ、どうしてあんなとこへ行ったか、云ってごらん。お銭もどこから持っていったか、白状しておしまい。すっかり云ってしまわないと、承知しないよ。」
 だが、私はしつっこく黙っていた。
 母はくどくどと責め立て初めた。愚痴っぽくなったり、怒り出したりした。何のために学校へ行ってるのか、とも云った。先生に云いつけてやる、とも云った。カフェーなんか子供の行くところじゃない、とも云った。誰にそそのかされて行ったのか、とも云った。金はどこから持ち出したのか、盗んだのか、とも云った。嘘をついて瞞かしたんだから、初めから何か目論見があったに違いない、とも云った。隠し立てをして云わないようなら、外に逐い出してしまう、交番につき出してしまう、とも云った。皆がどんなに苦労してるか分ってるか、とも云った。そして、父が長年造兵に出て苦労したものも、兄がよそに奉公してるのも、上の姉が辛い勤めをしてるのも、次の姉がカフェーなんかに出てるのも、母が眼の悪いのもいとわず竹楊子の内職をしてるのも、みんな私のためだそうだった。――が私は茲に母の揚足をとるつもりではない。後で分ったことだが、母が日歩の金なんかを内々廻すようになったのも、私が少し学校が出来るものだから、私だけには立派に学問をさせたいという腹もあったらしい。
 私は寝間着一枚で震えていた。母に殴られた頭や頸筋が痛むのを心で見つめていた。そして、カフェーへはただ行きたかったから行ってみた、金は自分で持っていた、とそう簡単に答えたきり、何を云われようと黙りこくっていた。
 姉も母に代っていろんなことを云った。それからまた母が怒り出した。私はも一度殴りつけられた。
 そしてるうちに、皆黙りこんでしまった。しいーんとなった。私は云うものか云うものかと思っていたが、気が弛んできた拍子に、お清のことが頭に映ってきた。
 私はふと吃驚して顔を挙げてみた。母も姉も一度だってお清の名を口にしなかった。当然そこに持出される筈のお清のことが、皆から忘れられていた。
 私は前後の考えもなく、勝ち誇ったように云ってやった。
「お清ちゃんに行ってもいいかと云ったら、いいって云うから行ったんだよ。」
 母と姉とは眼を見合せた。それから母は私を見据えて云った。
「お銭もお清ちゃんから貰ったのかい。」
「うむ。」と私は答えた。
「嘘じゃないだろうね。」
「嘘じゃないよ。」
 母は何だか少し安心したもののようだった。姉が得意そうに母の顔を見た。私には訳が分らなかった。
 けれども、その時私は、そんなことは一度に消し飛んでしまうほど驚いた。父がじいっと私を睨みつけていた。髯の伸びかかった兇悪な方の顔付で、眼を底光らせて、探るように見つめていた。私は胸の底まで冷りとした。
 その眼付が後まで胸に残っていた。殺されるかも知れないという気が
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