早くから家を出かけた。神保町の四つ角で電車を降りると、交番の時計はまだ七時に三十分余りも前だった。その間古本屋を覗きながら、何度も時計を見に戻って来た。巡査の顔付や眼付は眼中になかった。愈々七時になると、一二一二という足取りで出かけた。そしてカフェーの扉の少し手前でぴったり立止った。擦硝子の電球を見るような硝子扉だった。電車や自動車や自転車や人間が、素晴らしく沢山通っていた。真暗な空と冷い風との中で、何もかもが、明るい街路までが、幻影のように浮出して見えた。
 お清が出て来てくれなかったら、私はいつまでもつっ立っていたかも知れない。ふと気がつくと、カフェーの扉から半身を出して彼女が、混血児そっくりの顔付で手招きしていた。それを見た瞬間、今迄の熱情はすっかり消え失せてしまって、私は石のように冷くなった。そして真直に歩み寄っていった。
「何をぼんやり立ってたの。」
 私は返辞をしなかった。彼女の後について中にはいった。ぱっと光の中に飛び込んだような気持だった。彼女に連れられて隅っこの卓子に坐るまで殆んど無意識だった。
 円い腰掛、真白な冷い卓子、黒ずんだ植木、それらを意識しだして我に返ると、私は喫驚してしまった。胸をどきつかせながら空想していたようなものは何もなかった。学校の講堂より狭い天井の低いだだ広い室、所々に置かれてる生気のない植木、卓子の列、鉄の煖炉と錆びた煙突……あちらこちらに二三人ずつの男が声低く話してるきりだった。
 お清は私の前につっ立ってにこにこしていた。
「どう。……でもよく来られたわね。」
 その彼女までが、白いエプロンをつけてるせいか、ずっと年取ってるように見えた。あの素晴らしい笑い方もしなければ、飛び上るような物の云い方もしなかった。
 ただ、天井の大きな電球の光だけが素敵だった。
 私はがっかりした。次には泣きたくなった。がそれをじっと我慢してやった。
「何を食べるの……珈琲……お菓子……ホット・クラレット……。」
 私はただうむうむと気のない返辞をした。
 私はもう何にも考えもせず感じもせずただぼんやりしていた。一人になっても、お清がやって来ても、同じことだった。そして、甘い洋菓子と苦い珈琲とに手を出した。
「案外つまんないな。」
「何が案外なの。」
 そして彼女が初めて心からにっこり笑ってくれたので、私はいくらか落付いた。
 然しその晩私は全く気がぽーっとしていたらしい。細かな出来事は少しも覚えていないし、大体の事柄だって霧を通して眺めるようにぼやけている。はっきりしてるのはただ、私が次第に人の注意の的となっていったことだけである。
 カフェーの中は客が殖えていった。お清は大抵の者と知り合いらしかった。通りがかりに何かと冗談を云い合っていた。
「何だい、あの子供は。」
 そういう声が私にも聞えた。
「あたしの弟よ。」とお清は答えていた。
「うまく云ってらあ。君の子供だろう。混血児《あいのこ》は……早いって云うからな。」
 その連中はどっと笑った。
「いいわよ。」
 お清は怒った風をしながらも、笑顔をして私の方へよくやって来てくれた。が話は別になかった。
 黙ってじろじろ私の方を見てる客もあった。
 向うの植木の影からわざわざ顔をつき出して、私の方を覗いた女給があった。
 二階に通ずる階段から、足音も立てないでひょっこりお新が降りてきた。私は思わず首を縮めた。
 間もなくお新はまた出て来て通りかかった。と、不意に立止って私の方を見つめた。お清が立って、何やら耳元に囁いた。お新は蒼白い微笑をした。そしてつかつかと私の方へやって来た。
「早くお帰りよ。」
 それだけ小声で云って、睥みつけもしないで、澄した顔で二階に上っていった。
 いつものお新とはまるで違った感じを私は受けた。姉でも何でもない他人のような気がした。私の方でも意趣晴しなどということをすっかり忘れていた。
 その後お新はも一度二階から降りて来た。然し往きも戻りも、私の方へちらちらと眼をやったきりで、何とも思っていない様子だった。私の方では、姉の立派な姿に感心さえした。
 珈琲もお菓子も無くなると、お清は大きなコップに麦稈のついてるやつを持って来てくれた。口の中ですーっと消えて無くなるような飲物だった。
 私は皆から観察されながら、こちらでも皆の方を観察してやった。女給は大抵お清より年下の者が多いようだった。どれもみな同じような顔に見えた。ただお清の混血児顔が一人違っていた。客は会社員や学生だった。みな髪の毛を長くして顔の艶がよかった。誰も彼も愉快そうでそして威張りたがってるように見えた。が不思議なことには、一人もどっしり腰を落付けてる者がなく、いつでもひょいと立上れるようにしている、とそういう感じがした。それがひどく私には不安だった。そしても
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