を醸し出していた。
大人って馬鹿なものだな、何をびくびくしてるんだろう、とそんな風に私は考えていた。
或る日私が学校から帰ってくると、途中で、汚い身装《なり》をした労働者風な男が、にこにこ愛相笑いをして近づいて来た。
「あなたは西村さんの坊ちゃんじゃありませんか。」
私は喫驚して立止った。そんな丁寧な口を利かれたことは滅多になかったのである。
「西村さんの坊ちゃんでしょう。」
「そうだよ。」と私は多少得意になって答えた。
「そんなら、あの……寺田さんをよく知っていらした……。」
男は腰を低く屈めながら私の顔を覗きこんできた。
「そうだよ。」と私は答えた。
「では、寺田さんの居所《いどころ》を教えてくれませんか。わたしはもと、寺田さんと一緒に、子分同様に働いてた者ですが、急に用が出来て、寺田さんを尋ね廻ってるんです。何処へ行っても分らないから、あなたのことを思い出して……ええ、寺田さんから聞いていたんですよ……あなたなら御存じだろうと思って、家の方へ尋ねていくと、学校からまだ帰らないというんで、学校へ行ってみようと思ってたところです。……ねえ、坊ちゃん、寺田さんは今、何処にいるんです。」
「僕は知らないよ。」
私は相手の様子を見調べた。初めから何だか変な奴だなという気がした。かねて聞いてたところでは、職工とそうでない者とは、手を見れば、殊に手の節を見れば、一番よく見分けがつくそうだった。が生憎その時男は古い外套のポケットに両手をつっ込んで、両肩をねじり加減に前方へつき出していた。その恰好は如何にも見すぼらしい職工風だった。然し、妙に鋭い眼付と耳の前の黒子《ほくろ》とが何だか[#「何だか」は底本では「何だが」]変だった。職工にだって耳に黒子のある者はいくらもある筈だが、その男の黒子はどうも職工らしい感じではなかった。
「じゃあほんとに知らないんですか。」
男は私の眼をじっと見つめてきた。
「本当に知らないよ。」
「そいつあ、弱ったなあー。」
男は何と思ったか、五十銭銀貨を一つ取出して、強いて私に握らした。
「わたしが寺田さんを探し廻ってることは、誰にも……家の人にも、内証にしといて下さいよ。警察にでも知れると一寸厄介ですから。……では、坊ちゃんは本当に知らないんですね。」
「ああ知らないよ。」
「弱ったな。」
男はなお暫くもじもじしていたが、溜息をつきながら立去っていった。
私は家に飛んで帰った。
暫く考えた上で、私は父に尋ねてみた。
「お父ちゃんは、寺田さんがどこへ行ったか、本当に知らないのかい。」
「知らねえよ。何だい。」
で私は、途中で逢った男のことを話した。
父はひどく淋しそうな顔付をして、考えこんでしまった。
「知らないと云うのが一番だよ。」と母は云った。「実際何にも知らないんだからね。」
父も母も五十銭玉を私から取上げようとはしなかった。不思議にその時は、金のことなんかどうでもいいというような調子だった。私はすっかり安心した。五十銭玉を大事にしまいこみながら、もっとあんな男が出て来ないかなあなどと考えた。
これは後年寺田さんから直接聞いた話だが、寺田さんは砲兵工廠にはいる前、九州の或る硝子工場で可なり過激な労働運動を起しかけたことがあったそうである。そのことが警察の方へ知れたので、こんどの事件もあって、先に逃げてしまったのだとか。然し他にもまだ何かあったらしい。
私達はそんなことを少しも知らなかった。殊に私はまだ小さな子供だった。
幸なことには、警察の方ではもうそれ以上私達に目をつけないで、ただそれとなく網を張ってるくらいらしかった。然しそのことが、変な風にこんがらかっていった。
一月の末から、寺田さんがいた隣家の離室には、姉のお新と同じカフェーに出てる若い女が、姉の紹介でだろうが越してきた。
肉付のいい中柄な女で、顔立も姉なんかよりずっと整っていた。そして、額から眼から口元の様子が、真面目な時には一寸西洋人風に見え、笑う時にはあどけなく見えた。カフェーで混血児《あいのこ》と綽名されてるそうだった。
私は初め彼女に余り馴染めなかった。その上、彼女は姉と一緒に、午前中に出かけて夜十二時過ぎでなければ帰って来なかったし、私は朝早くから学校へ出て行くので、顔を合せることも少なかった。
その女が越してきてから、暫くたつうちに、父は俄に戸締りを厳重にしだした。隣家との間の木戸に輪掛金をつけたり、裏口の古戸に新らしい板片を打付けたり、表も早くから閉めてしまった。
「大丈夫だったら。……まさかそんなことじゃあるまいよ。」
そう母が云ってるのを私は聞いた。父は首を振っていた。
「そうじゃないかも知れねえ。だが、俺は家の中をじろじろ見られるのが嫌えなんだ。見られたっていけねえことがあるわけじゃね
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