ぐ向うは焼け跡で、五月の青草の匂いが風に乗ってきました。戦争はもう遠い過去に追いやられていましたが、しかし、あとには、ただむなしい空虚が残っていました。
 ひしと胸にせまる悲しさを懐いて、菊千代は何の喜びもなく杉茂登のいつもの室にはいってゆきました。
 檜山はへんに酔っぱらって寝そべっていました。
「やはり、歩いて来たの。」
「ええ。」
 にっこり笑おうとしたのが、頬にこびりついてしまって、菊千代は項垂れました。
「ちょっと、そのまま立っておいでよ。」
 腑に落ちないで佇んでる菊千代の足先を、いきなり、檜山は両腕に抱きかかえて胸に頬に押しあてました。
「あら、そんなこと……。」
 折り重なって倒れたのを、檜山はたすけ起して、自分もきちっと端坐しました。
「君の足に感謝したんだよ。僕はどうしても、君と別れられそうもない。」
「そんなら……。」
 言いかけて菊千代はやめました。やはり、檜山も別れることを考え悩んでいたのでしょう。けれどその時、檜山は眼を異様に光らして、別な意味にとりました。
「ねえ、死ぬ気かい。」
 菊千代は頭を振りました。
「こんどは、生きるのよ。」
「こんど……。」

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