込の中から不意に、一人の青年が真直に私の方へやって来ました。
「先生、御無沙汰しました。」
 にこにこ笑いながら、頭をかいています。その顔を見て、私は全く喫驚しました。平田伍三郎だったのです。
「ああ君か。すっかり変ったね。どうしたんだい。」
 すると彼は左の手で軽く頭を押えてみせました。
「お伺いするつもりでしたが、こいつのためにすっかり……。」
 なるほど彼は髪を長く伸して、オールバックにしていました。まだ頂上は少し伸びきらないとみえて、毛並が揃っていませんでした。それからセルの着物に一重羽織なんか着込んでいます。どう見ても以前の彼とは全く様子が変っていて、態度から言葉付まで東京の学生らしくなりすましています。
「見違えるほど変ったじゃないか。」
「だから私は、先生にひやかされるだろうと思って、ひやひやしていましたが、やっぱり……。」
「ひやかすんじゃない。感心してるんだよ。」
 そんな風に話を初めて、私達は芝居が初まってるのも知らん顔で、酒をのみました。彼は私の家にいる時からそうでしたが、酒はいくら飲んでも本当には酔わないから、結局飲んでも飲まなくても同じだと云っていました。その不経済な杯を、彼はしきりに空けながら、やがてじっと私の顔を見つめてきました。
「先生、私はやはり賭に負ました。」
 そして一寸彼の眉間に陰欝な影が浮びましたが、次の瞬間にはもう晴れやかな顔に戻っていました。
「賭って……何の賭だい。」
「あの……窓の外の庭のことです。」
 私はもう忘れていましたが、窓の外に鉢植を並べて庭を拵えるという、あのことを彼は云ってるのです。
「私はとうとう先生の説に降参しました。実際面白い考え方ですね。住宅は寝室と食堂だけで、街路がみな廊下の延長……愉快です。」
 それを聞くと、私の方が一寸面喰いました。
「へえー、そんなつまらないことが……。」
「つまらなくはありません。私はそれを友人に云いふらして歩いたんです。……東京の学生は愉快ですね。……私は東京の街路を飛び廻ってやるつもりです。……だけど、変ですね……どうも……。」
 彼は何かしら胸の中がもやもやしてるらしく、それをはっきり口に出せないのがなお焦れったいらしく、眉根に皺を寄せて考えこみました。私はその顔を覗き込んで尋ねました。
「どうしてまたそんな風に、心機一転したんだい。」
「え、心機一転って……。」
 それから暫くして、彼は真白な卓布に眼を据えて云いました。
「やはりあの庭のお影です。窓の外に一杯植木を並べて、私は一生懸命にその枝振をなおしたり水をやったり、木の間に頭をつきこんで、半日もぼんやりしてることがありました。すると、その窓の下に、煉瓦の塀越しに、よその家の室が見えるんです。薄暗い汚い宿でしたが、朝から晩まで、四十ぐらいのお上さんが、たった一人で縫物をしています。所が晩になると、薄汚い電燈が一つついて、古い不恰好な洋服を着た主人が戻って来ますし、その家に不似合なハイカラな娘が戻って来ますし、十四五の男の子も戻って来ます。そして皆で飯を食って、寝てしまうんです。それを二階の窓から見てると、実に変な気持がします。何だかこう、何もかもつまらないような……何もかも淋しいような……何もかも馬鹿げてるような……何もかも滑稽なような……実際変梃です。そして私があんまり覗いてたせいか、向うに顔を見知られてしまって、或る朝、植木の影から顔を出したとたんに、こちらを見上げてる顔とぶっつかって、ひょいとお辞儀をしてしまったんです。」
「誰とだい。」
「娘とです。」
 そして彼は不意に浅黒い顔を赤らめました。
「なあんだい、それで恋でもしたというのかい。」
「いいえ恋はしません。」と彼は真面目くさっているんです。
「じゃあどうしたんだい。」
「どうもしません。」
「だってそれっきりというのは可笑しいね。」
 彼は何か気に喰わぬことでもあるらしく、むっつりと口を噤んでしまいました。で私はそれ以上追求するのを止めて、他の話を――芝居のことなんかを――初めましたが、彼は余り気乗りがしないらしく、上の空で返辞をしながらもじもじしています。引留めたのが悪かったのかなと私は気がついて、暫くして尋ねてみました。
「つい話しこんでしまって……。君には連があるんだろう。」
「いえ……なに、いいんです。」
 彼は一寸狼狽した風でした。で私はすぐに勘定を払って、彼と一緒に廊下へ出て、そこで左右に別れました。
「そのうちゆっくり遊びに来給いよ。」
「ええ、上ります。」
 彼は首を垂れてすたすた歩いてゆきました。
 私は仕方なしに、途中から座席につきましたが、芝居が更に面白くありませんでした。芝居よりも彼のことが深く頭に刻まれていました。それで幕間になって、方々を探し廻りましたが見付かりません。次の幕間も同じことでした。そのうちに、芝居をそっちのけにして彼を探し廻ってる自分自身が、妙に白けきった馬鹿馬鹿しさで頭に映ってきましたので、私はふいに一人で笑い出して、後の幕はそのままに劇場から飛び出して、家に帰ってゆきました。
 妻は私の話を聞いて、信じかねるようなまた心配そうな眼付をしました。
 母上
 丁度その頃です、平田伍三郎の伯父から手紙が来ましたのは。――伍三郎は此頃どんな風にしてるか知らしてほしい、夏の初めから毎月七八十円の金を送ってるのに、なお足りないと見えて、よそに嫁いってる姉から五十円六十円と送って貰ってることが分った、余り金を使うようで心配だから、よろしく御監督を頼む……というような手紙でした。
 劇場で逢ったこととその手紙とで、最近の平田伍三郎の大体の様子は分りました。そして私は可なり当惑しました。
 手紙には監督をたのむなどとありますが、よそに下宿してる男を監督することなんか、東京ではとても出来るものではありません。第一その男がどんなことをしているかさえ、なかなかはっきりは分らないんです。田舎では誰が何をしたかということは、すぐに皆の人に知れてしまいますが、東京ではそうはゆきません。余り沢山人間がいて、そして互に見ず知らずの他人です。その人間の渦の中に身を隠せば、容易には人に目付かりません。
 私は手紙を前にして考えましたが、改まって彼を訪ねていったり呼寄せたりして角立てるのは却って悪いから、こんど彼がやって来た時にゆっくり逢って、彼の考えなり行いなりをはっきり聞いた上で、何とか方法を講じようと思いました。
 そして彼を待ち受けましたが、彼はなかなかやって来ませんでした。がとうとう、劇場で逢った時から十五日ばかりたって、日曜日の午後、彼はひょっくり姿を見せた。
 母上
 少し冷かになりかかったのが急に逆戻りして、蒸し蒸しする生温かな南風が吹いて、頭がぼっとするような日でした。妻と女中とは子供達を連れて動物園へ行って、私一人で留守をしていました。その午後三時頃、平田伍三郎は大変な元気ではいって来ました。けれど何だか顔色が悪く、肩ではあはあ息をしていました。
「どうしたんだい、加減でも悪いのか。」と私は尋ねました。
「いえ何でもありません。急いでやって来たものですから……。」
 そして彼は額の汗を拭きながら、ふいにくすりと笑いました。
「何か面白いことでもありそうだね。」
「ええ、そりゃあ滑稽なんです。先生を呼びに来ようかと思ったんですが、とても来ては下さるまいと思い返して、私一人で見ていました。さっき済んだばかりです。」
「どうしたというんだい。」
「実は私が一寸へまをやっちゃったんです。」と話し出しながら彼は善良そうな眼をくるくるさせました。「この前お話しましたあの……私の室の窓から見下せる隣りの家ですね、あすこの娘に、私が横着をきめこんで、急に用事が出来た時には紙片に書きつけて投げこんでいたのです。それを親父に見つかりましてね、ひどく怒ったそうです。逓信省に勤めてる下っぱの腰弁で、まるで頑固一点張りの男なんです。私が窓から紙片を投ったのを見付けて、娘の方はそっちのけにして、私に対して向っ腹を立てたらしいんです。そして今日、何処からか広いトタン板を買って来て、自分で軒の庇のつぎ足しを初めてるじゃありませんか。私の窓から見えないようにするつもりらしいんです。空樽の上に踏台を重ねて、そのぐらぐらするやつに乗っかって、襯衣一枚で、一生懸命にかちんかちんやっています。頭の頂辺の禿げかかった所に日があたって、薄い毛の間からぴかぴか光っていて、その頭一面にもーっと湯気を立てて、しっきりなしに水洟《みずばな》をすすってるんです。屹度私から覗かれてるとでも思って、猶更いきりたったのでしょう。大きなトタン板をあちらこちらに持て余したり、つっかい棒をしたり、釘を打ったり、見ていると、滑稽を通りこして悲惨な気がしました。それでもどうやら庇のつぎ足しが出来上って、向うの室もその前の一寸した地面も、すっかり隠れてしまいました。」
 彼はまた可笑しそうにくすくす笑い出しています。
 私は一寸呆気にとられました。そんなことをぺらぺら饒舌る彼の気持が分りませんでした。そして余り彼の顔を見つめてたせいか、彼は一寸白けた顔付をして云いました。
「だって……先生だって、見れば屹度お笑いなさるに違いありません。」
 そこで私は、彼に先をこされて立ち直ることの出来ないもどかしさから、いきなり問題にふれていきました。
「そりゃあ可笑しいかも知れないが、然し君、冗談じゃないよ、本当に。」
 そして私は立上って、彼の伯父の手紙を持って来ました。
「これを読んでみ給い。」
 彼は無雑作にそれを披いて、近眼の人が物を見るような工合に、眉根に皺を寄せて読み通しました。
「大丈夫ですよ、先生。」と彼は手紙を巻き納めながら私の方を見ました。「無駄使いなんかちっともしてやしないんです。着物を拵えたり書物を買ったりしたんです。一々書き出しても宜しいんです。」
「然し余り国の人達に心配をかけるのはよくないね。……それに君は、その隣りの娘と始終落ち合ってるんだろう。」
「だってほんの少し一緒に歩くだけなんです。店がひけて彼女が帰る時に、銀座通りなんかを少し歩くだけなんです。物を食べにはいることなんか滅多にありません。大抵腹をぺこぺこにして戻って来るんです。大変やかましやの親父で、帰りが余り後れると、もう堕落しきったもののようにがみがみ云うんだそうです。だから私共は一緒に一寸散歩するだけにしています。こないだのように一緒に芝居を見にいったことなんか、まだ一度きりなんです。」
「そして一体君達の間の関係はどうなってるんだい。」
「関係って何にもありゃあしません。それだけのことなんです。」
「だって可笑しいじゃないか。若い男と女と外で始終逢っていて……。そんなら聞くが、君はその女と結婚する気があるのかね。」
「結婚なんか真平ですよ、あんな女と。向うでも嫌でしょう。」
「へえー、どうも僕にははっきり分らないが……。」
「だって先生の方が可笑しいじゃありませんか。一人で歩くより二人で歩いた方が面白いから、そうしてるだけなんです。」
 彼の答えは如何にも平明で、何等疚しいところもなさそうです。それかといって私にはやはり腑に落ちないんです。そして変な問答をくり返してるうちに、家の者が帰ってきました。
「まあー、平田さん……。」
 そう云って立ったまま眼を見張ってる妻の前に、彼は頭をかきながら極り悪そうにお辞儀をしました。次には子供達が左右から彼に寄っていって、彼を奪い取ってしまいました。
 で話はそのままになって、彼は夕食の馳走になってゆくことになりました。
 妻の心尽しで、餉台の上には酒の銚子まで並んでいました。そして一緒に酒を飲み食事をしながら、私と妻とはごく穏かな言葉で、そういう場合に誰でも普通に云いそうなことを――故郷の人達に心配さしてはいけないとか、余り物を買うものではないとか、若い女との交際は初め何でもないつもりでも危険が伴い易いとか、そんな風なことをぽつりぽつり云ったのです。それを彼はただにこにこして心安そうに聞いていました。それ
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