、小豆一升の土産で十日も二十日も泊り込まれたのでは、実際やりきれないんです。だから東京には上等から下等まで、到る所に宿屋が多いんです。
とは云いましても、地方出の東京人は故郷に対する愛着を失ってるわけではありません。近隣関係の稀薄なために、故郷の土地に対するなつかしみは、増すとも減る気遣いはありません。然しそれはあくまでも故郷の土地に対してです。故郷の人々に対してではありません。故郷の人々の記憶がいくら薄らごうとも、故郷の山や川や野原は、昔の思い出にとり巻かれて、益々なつかしく輝き出すものです。国亡びて山河ありという言葉は、新らしい別な意味で、地方出の東京人の胸にぴたりときます。
話がわきにそれましたが、平田伍三郎がやって来た時私は、前申したような地方出の東京人の一人だったのです。その上私は大変貧乏でした。月々の月給で漸く生活してるきりで、家計の余裕なんか更になく、家も家族だけで一杯だし、夜具の余分も来客用の一組しかなく、友人の出入も可なりあるし、どの点から考えましても、たとい下宿料を貰っても、平田伍三郎を家に置くことは出来なかったのです。それに、特別の縁故でもあれば兎に角、彼と私とは九州の田舎の隣村に生れ合したというだけで、全くの他人じゃありませんか。
で私は、折角彼に好感を持ち初めたのに、変にそぐわない気持になって、苦笑を洩しながら云いました。
「随分無鉄砲だな、そんな相談はちっともなしに、いきなり僕のところへ飛び込んでくるなんて……。この通り、家じゃとても駄目ですよ。」
「それじゃあ、下宿屋でも探さにゃなりませんかしらん。」
「まあそれより外に……。だが、毎月五十円ずつ来るというのは確かでしょうね。」
「ええ確かです。もう千円ばかりアメリカから送って来とる筈ですから。」
「それなら何も心配はいらない。気持のいい素人下宿でも探すんですね。ただ、布団だけは持っていないと大変不経済だし、借りたのでは長い間の辛棒は出来ないから、すぐに送って貰うように云ってやったらどうです。」
「そうしましょう。」
そこで、布団が来るまで彼は一時私の家にいることになりました。
母上
平田伍三郎が私の家にいたのは、二週間ばかりの間だったと覚えています。そして彼は、当にしていた私の家に長く居るわけにはゆかず、やがて一人で下宿へ移らなければならないことを、別に悲観した風もなく、四五日後には、神田の正則英語学校の受験科にはいって、英語の勉強を初めました。
「東京の学校は不親切ですね。」と彼は云いました。「鐘が鳴ると先生が教室にはいって来て、ぺらぺらぺらぺら、恐ろしい早口で饒舌り続けて、そしてぷいと出ていってしまいます。何にも分りはしません。質問する時間もありません。それに少し遅れていくと、もう坐る場所が無くなって、立っておらなければなりません。あんなに不親切であんなに繁昌するのはやっぱり東京ですね。」
その調子は、不平を感じてるというよりも寧ろ感心しているという風でした。そして彼は毎日出かけてゆきました。その往き返りを、電車にも乗らずに必ず徒歩でやるのです。
「電車に乗ったらいいでしょう。」と私は何度も云いました。「余り歩くと疲れて、勉強の邪魔になりはしませんか。」
「いえ、歩むのには馴れとりますから何でもありません。毎日あれくらいは歩む方が身体のためになります。」
そして頑固に徒歩主義を続けているうちに、東京の雨や雪は横から降るということを彼は発見しました。
母上
東京は一体に風の多い処です。殊に一月の末頃からは猛烈な北風が吹き続けます。雨や雪の降る日などは、いくら傘を上手《じょうず》にさしても、歩き続けようものなら、膝から下はずぶ濡れになってしまいます。家にいる時には風がないような気がしていても、一足街路に踏み出すと、全く横から雨や雪が降っています。
「国ではそんなことはありません。雨やら雪は真直に降るときまっとります。」
そう云って平田伍三郎は、大発見でもしたようににこにこしていました。そしてその発見を楽しむかのように、雨や雪の中も平気で歩いて戻ってきて、女中を困らしたものです。彼の着物は前に申しました通り、馬鹿に沢山綿がはいってるものですから、ぐっしょり濡れてる膝から下を乾かすのに、女中はいつも眉をひそめたのです。
「自分でも寒いでしょうにね。」と妻は私に云いました。
それは寒いに違いありません。ただでさえ身を切るような北風に、雨や雪が交っていては、普通の者は到底我慢しきれるものではありません。が平田伍三郎は平気でした。耳朶のはじは凍傷で赤くふくらみ、鼻の頭は真赤になっても、更に徒歩主義を捨てませんでした。それも金がなくて電車に乗れないのなら別ですが、彼はそれくらいの金は充分持っていましたし、或時なんかは、十四円もする舶来の上等な万年筆を買ったりしていたのです。彼は習慣的というよりも寧ろ本能的に、毎日いくらかでも歩かずにはいられなかったようです。日曜日には必ず半日くらい散歩しました。
そういう風に歩くことの必要からか、彼は私の家にいる間は、一日も学校を休まなかったようです。けれども、大して勉強に熱心でもありませんでした。一つは、きまった勉強室がなくて、客間の片隅を使っているために、落付かなかったせいもありましょうが、「まだ一年あるから、」とゆっくり構えこんで、家では大抵子供相手に遊んでいました。
彼は至って子供好きのようでした。それでも、自分から進んで子供を遊ばせるというのではなく、ただ黙ってにこにこ笑いながら、子供の相手になってるのを楽しむという風でした。それを子供達の方ではいいことにして、彼を相手にいつまでも遊んでいました。丁度四つと六つの悪戯盛りで、時によると随分しつこく彼にふざけました。耳を引張ったり、鼻をつまんだり、ワンワンをさしたり、私共が見兼ねて叱りつけるようなことも度々でしたが、然し彼はどんなことをされても平気で、始終にこにこしていました。云わば彼は黙って子供達の玩具になってるのが面白いらしく、また子供達の方では、彼を生きた人形とでもいうような風に、何の気兼も憚りもない遊び相手にしていたのです。
それでも彼は、時折子供達相手の遊びに変に真剣になることがありました。いえ、子供相手の遊びというよりも、自分一人の遊びと云った方がよいかも知れません。或る時、彼が子供達と一緒に座敷で遊んでいるうちに、夕飯の仕度が出来上って女中が呼びに行きました。でも彼はやって来ません。二度呼びにゆくと、子供達だけやって来て、彼は一人残っています。何をしてるのかと聞くと、羽子《はね》をついてるのだというのです。でそのままにして、先に食事を初めましたが、いつまでも羽子の音が続いて、彼がやって来ないものですから、また女中を呼びにやりました。それから暫くして、彼ははあはあ息を切らしながら、陰鬱そうに眉根を寄せて出て来ました。
「何をしていらしたの。」と妻が尋ねました。
「お嬢さんと五十まで羽子をつけるかどうかかけをしたもんですから、一生懸命にやってみたですが、一度にゃとても五十は出来ません。」
骨張った額に真面目くさった皺を寄せてるその顔を見て、私共は笑うにも笑えませんでした。不器用な頑丈な手で、役者の似顔絵のついてる羽子板を握りしめて、五十まで羽子をつこうと決心して、子供達がいなくなった後までも、一人で座敷の中を飛び廻ってる彼の姿は、滑稽の度を通り越していました。
それから幾日かの間、毎日羽子の遊びが続きました。彼が五十までつけたかどうかは聞き洩しましたが、その遊びのお影で、上の子は五十までの数を、下の子は二十までの数を、独りでに数えることを覚えました。
母上
それからも一つ、彼が私の家で興味を覚えた事柄があります。それは、台所に転ってる野菜についてです。
或る寒い雨の日、彼が例の通り半ば濡れ鼠になって学校から帰って来た時、何かの煮物のために、釜の下に火が燃えてたものですから、妻はそこに彼を招いて火にあたらしたそうです。冬になると瓦斯の出が悪いそうで、私の家では釜の下には薪を使うことにしています。で彼はその竈の前に屈みこんで、薪の火にあたりながら、田舎の土間と違ってすっかり板の間になっていて、その上に竈を据えて薪を焚く東京の台所に、感心したりなんかしていたそうですが、そのうちに、片隅に転ってる一本の牛蒡を取上げて、不思議そうに云い出しました。
「これは何になさるんですか。」
「それ、牛蒡じゃありませんか。」と妻は答えました。「晩のお惣菜ですよ。」
「これだけでですか。」
「ええ。なぜ。」
「それでも、先生と奥さん……、」と順々に彼は二人の子供から女中から自分自身まで数えて、「みんなで六人でしょう。」
「ええ、六人のお惣菜ですよ。それをあの里芋と一緒に煮るのですよ。」
「へえー、そうですか。」
そして彼はその一本の牛蒡と向うの五合ばかりの里芋とを、如何にも不思議そうに見比べて、さも感心したように云いました。
「東京の暮しはままごとのようですね。」
そのことを後で妻は私に話して、こうつけ加えました。
「屹度大変倹約だと思いなすったんでしょう。でも、うっかり冗談も云えませんので、挨拶の仕様に困りましたわ。」
この大変倹約だとか、うっかり冗談も云えないとかいうことについては、まるで嘘のような話があるのです。前に申すのを忘れましたが、平田伍三郎が私の家に来た翌日の晩のことでした。その頃私は胃が悪くて昼食をぬきにしていましたので、晩にはいつもごく腹が空いていました。その晩もやはりそうでしたから、何杯たべたかしらと妻に聞きながら、「昼飯を食わないとひどく腹がすく、」というようなことを云いました。すると平田は喫驚したように、「昼飯をあがらないのですか、」と聞くのです。「ええ、会社の高い弁当代なんかとても払えないから、二度しか飯は食わないんです。三度の飯も食えないとはこのことですよ。」所が、笑いながら云ったその言葉を、彼は本当にとったものと見えます。翌日[#「翌日」は底本では「習日」]彼は妻に向ってこう云ったそうです。「先生もお気の毒ですね。会社の弁当が高かったら、パンでも持ってお出なさればよいのでしょうに。」――そのことが、私の家の笑い話の一つとなりました。
そういうことがあったものですから、牛蒡一本と里芋五合との件について、妻が前申したような風に解釈したのは無理もありません。然し私はそれを聞いて、彼の――平田伍三郎の――気持がはっきり分って、自分でも一寸変な心地になりました。
母上
田舎では食物は実に豊富です。牛肉と海の魚類とを除いては、凡てあり余るほどあります。米は何俵も蓄えてあるし、野菜物は畑から一度に畚《もっこ》一杯も取って来るし、鶏といえば必ず一羽ですし、川魚は何斤という斤目ではかります。そしてそれに応じて一度の煮物も多量です。所が東京では、毎日各種の商人が用を聞きに来まして、その日の、重に晩の一度分の少量な食物を届けます。大根一本、牛蒡一本、里芋二三合、蕪半束、魚の切身二つ三つ、肉何匁、といった風な工合です。ですから、台所に大根が半分と馬鈴薯が四つ五つ転ってたり、竹皮包みの魚の切身が置いてあったりするのを見ると、田舎の人はままごとのような世帯だと思うに違いありません。考えてみると、不思議なほど貧弱な台所です。田舎では大饑饉の折にしか見られないことです。一日商人が来なければ、一家中一日饑えなければなりません。而も、そういう貧弱な台所の煮物と、狭苦しい住居の掃除とに、主婦や女中は一日の大部分を費しているのです。
平田伍三郎の話を聞いて、私の頭には、田舎の豊富な生活と東京の貧しい生活とが、はっきり映ってきました。そして私は、急に何だか頼りない気がしてきました。笑いごとではありませんでした。東京育ちの妻へいろいろ話してきかせますと、妻も淋しい眼付で考え込みました。
何だか話が理屈っぽく淋しくなってきましたから、このことはこれきりにして、先を続けてゆきましょう。
母上
前に申しましたようなわけで、平
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